ヤナギダクニオとヤナギタクニオ

柳田國男の正式な読み方は、ヤナギタクニオであり「田」は濁らない。 最近では関係者は皆心得ているし、誰しも他人の名前は正確に言うのが礼儀なのは弁えていて、一生懸命ヤナギタクニオと正確に発音しようと努力をする。ところが、この鼻濁音の発音の不得手なのは日本人の「民族学」的特徴らしく、どうしても慣れないとヤナキタクニオになってしまう。
 
 ヤナギタは「青年と学問」の中で以下のように述べている。

「ローマ字論者のまだ考えておらぬ軟らかなG、長崎をNangasakiなどと書くngは、学者によってなおいろいろな表音法を採用しているが、必ずしも言葉の中ほどにある場合のみでなく、また他の母音にも伴のうて、弘く大平洋の各地に行われている。これなども日光・風・湿気・食物、その他の天然の力が肺や声帯や口腔構造に影響して、この大なる一致を示すのかも知れぬ。」


 これもひょっとしたら、今流行りの「弥生」人間か、「縄文」人間かの区別の為に重要な要素かも知れない。
これを身内の独りである筆者がヤナギダと言っても誰も咎めだてはしないだろうし、却ってほっとするかも知れない。
 この事は、本来末梢的な事で、学問の内容とは一切関係ないが、最近皆やけにこだわる。
人の名前であるからして、当然と言えば当然であり、他の人間に変えられるものではない。これは日本人に英文法が変えられないのと同じである。
これと似たような事が学問の世界にも言える。
日本が西洋の学問の方法を取り入れて以来、教育は西洋の真・善・美のカテゴライズの下で行われている。従ってこれも英文法と同じに変えれないものと思いがちである。

 柳田は、「善と美とはナショナルなものであって、真のみがそれを超えたインタナショナルなものである。」と言っている、これはあくまでも「民俗学」に於いてとの但し書き付きであるが、柳田の追求していたのは「新国学」としての「民俗学」であり、彼はオリジナルなカテゴリーを切望していたのである。

 筆者は、日本人はすべからくこの頭の中にインプリントされた枠を取り払い、自分自身を訓練する必要があると思っている。人間は枠内に留まっている限り枠は見えないのである。少なくとも一度枠の外に出てみる位の勇気は欲しいものである。
これも島国の集団生活の特異体質の一つなのかも知れない。

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