自伝

大学時代

私は慶応大学に日吉に三年、三田に二年と都合五年間居た。 一次補欠で入学出来た迄は良いが、その後がいけなかった。留年である。 現役で入学出来た私は、その頃有頂天で浮ついていたのだ。 法律が勉強したかったから、法学部のそれも法律学科に入った訳でもなく、只何となく法律を選んでしまった。 第二外国語にしてもそうだ。 只、兄は硬派だからドイツ語、弟は軟派だからフランス語と雰囲気だけで決めていた。 授業にはちゃんと出席していたが、必修科目の法学と第二外国語のフランス語を落としてしまった。 法学は先生が追試をすると言いながら、そのまま海外留学してしまったので諦めが付いた。 しかしフランス語の教師は、私のクラスの担任であり、年四回ある試験のどれかで挽回すればいいやと思っていた。 三回目の試験が済んだ後で、私は担任の講師の所に相談に行くと、その担任は、「君にはもう一年やって貰わなくちゃ駄目だね」と、すげなく言い放った。一貫の終わりである。 学年の途中に私の留年は既に決まっていたのである。 当時一緒に遊んでいた仲間が丁度二十人弱居り、私が「もし二十人落ちたら自分も絶対に落ちる」と、言っていたのが現実になってしまった。 私のクラスからは二十人もの学生が留年したのである。 出席しないで落ちたなら納得も出来様が、私は毎日楽しく学校に行き、キャンパス・ライフをエンジョイしてたのにも拘わらずである。 その頃私はよく言い訳で、「浪人した兄に先に進級して貰い俺は留年するんだ」と言っていたのだが、その兄もまた留年してしまったのである。 家に帰ってから父が、学校からの二通の通知を見ながら、「お前達は、二人とも一年就職が遅れ、家にとって二百万も負担が増え、ダブルの損害だ」と、珍しく金額を口にして説教をした。 恐らくこれが父と金の話をした最初で最後かもしれない、それ位金銭的な事には無頓着な父親なのである。

高校迄は兄の後を着いて回っていたが、その頃から兄とは別行動をする様になっていた。 食堂で偶然会っても友達には「これ、俺の従兄弟」と言って紹介したりしていて、友達も、「そう言えば似てるね」と言う程度であった。 それでも、同じ高校から一年早く入った兄と同級の先輩が可愛がってくれ、車で湘南海岸によく連れて行って貰ったりしていた。 ある日私は学食で女子校から来た女の子を見付け恋心を抱いて、それを先輩に打ち明けたところ、ある計画を立ててくれた。 それは、その子の別荘が軽井沢にあるから、夏に軽井沢に行って彼女を呼び出してやるというものだった。 その計画は実行された。 先輩が、同じ高校の同級生で軽井沢に別荘を持っている人に話してくれ、私は未だ車の免許を持っていなかったし、先輩も免許を取ったばかりだったらしく、碓氷峠は心配だと言うので、三人で電車で軽井沢迄行った。軽井沢に行ったのは私はその時が初めてだった。 着いてから暫く経ってから、先輩が車が無いと計画が旨く運ばないと言い出して、一人で東京に戻り、伯父さんから譲って貰ったヒルマンを運転して戻って来た。 それから、先輩が件の女の子の電話番号を調べて突き止めてくれ、その上電話迄して呼び出してくれた。 近所の山にドライブに行き山頂で彼女と話す機会を得たが、いくら先輩がけしかけても、私は緊張の余りしどろもどろになり、折角の貴重なチャンスを失ってしまった。 矢張り幼稚園に行って無いと、何にでも遅れを取るという良い例である。

最初の一年間はあっと言う間に過ぎてしまった。 車の免許を取ったのもこの年だった。 免許を取ってから一周間目に、皆でレンタカーを借りドライブしようという事になり、箱根に行く事になった。 その頃は丁度、トヨタが日産のサニーに対抗してカローラを出し、「一〇〇CCの余裕」と言って盛んに宣伝していた頃である。 私達が借りたのは日産のサニーだった。 私が運転を担当し、はしゃいで、「あのインディアンを追え」とテレビのコマーシャルを真似して、箱根の坂の途中で対抗車線に出てトラックに追い越しを掛けたのだが、前から車が来てしまい、あわや正面衝突というところで、慌ててハンドルを切ったものだから、切り過ぎてしまい、トラックに車の後部を引っ掛けられてしまったのである。 横に座っていた友達が、「ブレーキ、ブレーキ」と叫んでいるのは聞こえているのだが、足が言う事を聞かない。 私達の乗った車は、箱根の坂の途中で後輪を溝に引っ掛けてやっと止まり、全員無事だったのである。 幸いな事にそのトラックは、大手トラックメーカーのテストドライブ中の車で、運転手と助手がたまたま良い人達だった為、私達の車を引っ張り上げるのも手伝ってくれ大助かりだった。 その運転手が、「困ったな、今歪みのテストをしていたんだよ」と本当に困った顔をしていたので、仕方なく、なけなしの小遣いから、三千円渡し、「申し訳有りません、これで帰ってから酒でも飲んで下さい」と言って事なきを得たのである。 その代わりレンタカー会社の担当者が凄かった。 借りる時に保険だけはちゃんとしておこうと、千円多く払って全損担保にしておいたのが幸いして、全て免責になり、左後部を大破した車を見た担当者も事故の事は怒る訳に行かず、車の中のゴミを見付け、「車を返す時位ちゃんと掃除してから返せ」と凄い剣幕で我々に怒鳴ったのである。 これが生れて初めて私が起こした自動車事故である。

入学したばかりの時、成城教会に通っていた先輩にオリエンテーションで偶然出会い、「カトリック詠唱会」という同好会に入らされてしまった。 その頃の私は、教会にも行かず悪さばかりしていたどうしようもない奴だったので、自分がそんな固いクラブに所属しているのは、何か照れくさくて仕方が無かった。 メンバーはカトリックだけに全員良い人ばかりで、私がそんな風に感じている事等思っても見ない感じだった。  子供の国に皆で行き、遊んだ記憶があるが、会合に参加したのは一度しか無かった。 その一度とは、信濃町にあった何処かの会館で、泊まり掛けで行われたもので、私は次の日遊びに行きたかったものだから、朝エスケープしてしまったのだが、帰ろうとした私を誰かが呼ぶので、振り返るとなんとそこには、あの慶応外語で会った私の憧れの君が立っていたのである。 私は照れくさいの何のやらで、一瞬その場で硬直してしまい、しどろもどろで何を言って良いのか分らず、そそくさと逃げだしてしまったのである。 そこにはもう一人後に私の人生に大きな影響を後に与える人間がいた。 それは、私が帰る時玄関で見送って呉れた人間である。 その時その会館で世話役をしていたその人と二十年以上も後で遇う事等その時想像するべくも無かった。 やがて私は留年し、二回目の一年生になった。 後に結婚する事になった彼女は私が留年したクラスに居た。 幼稚舎から慶応の生っ粋の慶応ッ子であった。 私より五センチも背が高くて、シンクロナイズド・スイミングのクラブに入っていた。 私にとって本格的な恋をしたのは、この時が始めてと言ってもいい位だった。 或日東横線の中で彼女に出会い、澁谷で一緒に映画を観たのが最初のデートだった。 それからはライバルも出現したりしたが、順調に推移した。

二人でよくドライブにも行った。 一度は二人でドライブを洒落込んでいた時、タクシーに追突してしまった事があり、そのタクシーの運転手に脅されえらい目に会った。 その運転手は車から降りて来るなり、そこの工場で修理の見積もりを貰うから着いて来いと言い、近くにあったディーラーの工場迄着いて行かされ、見積もりが済んだあとで、念書にサインさせられてしまった。 事故と言えばレンタカーを箱根でぶつけた位で、慣れていなかった私は、仕方が無いのでそこで支払うとサインをしてしまったのだが、どうにも納得出来なくて、その後タクシーの会社迄後を着いて行った際にその会社の人間に確認したのである。 応対に出た人間は物わかりの良い人で、「傷も大した事がないから五千円でいいよ」と言ってくれたので、その時私は騙された事に気付き、それを言おうとした矢先、運転手が物凄い形相で私を睨み付けたので、私は何も言えなくなってしまい、帰って来てしまったのがいけなかった。 その後で運転手が自宅に電話を掛けて来て、近くの大蔵ランドに指定する日に金を持って来いと脅かして来たのだ。 私が躊躇していると、運転手は休業保証を出せとか、慣れない私の上手に出て、ありとあらゆる事を言ったので、私は渋々承諾せざるを得なくなってしまったのである。  困った私は、以前慶応の講習に一緒に行った友達に相談して、その時来て呉れた空手の得意な朝鮮高校の人間にその場に来て貰える様に頼み、彼は引き受けてくれたのだが、大蔵ランドは遠いと言う事で、澁谷の東急文化会館の前に変える様に言われてしまった。 私は運転手に電話を入れその旨を伝え、何も知らない運転手は金がとれると思い、その場所にのこのこやって来たのである。 三人に取り囲まれて、やっと状況が解った運転手は、そこにいた警官に駆け寄り、「あの人たちに脅かされているんです」と助けを求めたのだが、私達がすぐ事情を説明し、その警官もすぐ理解して呉れて、その場は済んだのだが、その後も家に電話して来て、母に、「お宅のお子さんは、ヤクザと付き合っている」と言って、母から、「家の子が誰と付き合おうと、彼方と関係無いでしょ」と一蹴されると、今度は兄に又同じ様な事を言い、「この電話は全て録音されているぞ」と言われやっと諦めさせた事もあった。 その時助けて呉れた人は、ある組織の大幹部になったという話である。

その頃は横浜の元町がデートスポットとして有名でよく行った覚えがある。 この時の車は、免許を取得した私が母にねだって買って貰ったもので、車種は箱根で事故を起こした時の車と同じ日産のサニーという車で、千CCでグリーンの小さい車である。 その当時はオートマチック車も普及していなくて、その上私がフローアー・シフトにこだわったので、家では私と年子の兄以外は乗る人間が居なくて、大体は私専用みたいになっていた。 その頃から、大学に入ると免許を取って車を買うというのが極一般的になっていて、我が家もやっと仲間入りという感じであった。 一度試験の全日、彼女にノートを見せて貰った帰り道に、車で環状八号線を走っていた時、後ろからクリーム色の日産スカイラインGTが競って来るのがバックミラーに写り、振り切ろうと一寸スピードを上げた途端、サイレンの音が響き停車させられてしまった事があった。 当時は覆面パトカーが出始めの頃で、街で見掛ける事が増えて来た時期であり、学生の間ではゼロヨン加速と言って、ゼロから四百メートル迄の加速力を競うのが流行っていて、私の乗っていたサニーも千CCながら実に加速が良く、信号と信号の間の様な短い区間だったら、運転の仕方によっては誰にも負けなかったのである。 その頃は未だ交通量が今程多くなくて、公道で運転の練習が出来た良い時代であったのだ。 車から出されて、免許証の提示を求められた私は、その時免許証を携帯していないのに気付き慌てたが、次の日が試験で急いで家に帰ろうとしていた、と事情を説明した後、大したスピードを出していた訳でも無く、後ろからせっついて人をあおっておいてから捕まえるのはフェアーじゃ無いと抗議したが、取り合って貰えず、逆にその警官は、「慶応の学生だったら、金持ちだろう」と言ったので私は、「父親は国家公務員なので家は貧乏だ」と答えた。 その国家公務員が効いたのか、スピード違反は取られず、免許証不携帯だけで許して貰った。 只、その後運転して家に帰る事はさすがに許して貰えず、兄に電話を掛けて、タクシーで迎えに来て貰うはめになった。 御蔭で、罰金も少なくて済み、持ち点も一点しか減らず助かった。 同じ様なケースはその後も一度あり、年子の兄にはその度に迷惑を掛けてしまった。

彼女にはノートを貸して貰ったり大分助けられた。 数学の試験を受けている時、私は隣の彼女に聞いて答を書いていた。 世間ではこれをカンニングと呼んでいる。 その時の担当教授が私と彼女の肩に手を置いて、「君たち仲の良いのは結構なんだけど、相談しちゃ駄目だよ」と言った。 その先生は、父と高校が一緒である事を父から聞いた事があったので、「先生は、成城高校でいらっしゃるんですってね、私の親父も成城なんですよ」と照れて、話題をそらす為に言ったのである。 すると先生は、「トシオ君かい」と知らない様子だったので、「為正です」と答えてその場を逃れる事が出来、名前を貼り出されずに済んだ。 結果は、彼女がBで私がCだった。

当時は、学校紛争盛んなりし頃で、一年生の時は二年間共、その為に授業時間が割かれクラス討論会になる事がよくあった。 慶応の学生は所謂ノンポリが多く、私もその一人だった。 議題も、学食値上げ反対とかそういったものだった。 或時、英語の授業の時間がクラス討論会になり、クラスの決議が、学生食堂値上げ賛成になってしまった事があった。 私は思わず手を挙げ、「親のすねをかじる分際で、値上げに賛成するのはおかしい、たとえ困らなくても反対すべきである」、「食べ物はイデオロギーとは関係無い」と、珍しく発言した。 勿論試験も駄目だった訳ではないが、お蔭でその英語はAが貰えた。 留年した年も、その先生の時間がクラス討論会になった事がある。 その時は、「革命革命と言いながら、革命の戦士が夏休みに資本主義の最たる様な、中小企業の親父の元に帰るのはおかしい」と、発言した。 私に批判された学生は「革命じゃない、構造改革だ」といっぱしの言葉を吐いた。 外で待っていた彼女が呼ぶし、自分もつまらなくなったので、こっそり教室を出ようとすると、先生が「どこに行く」と聞くので、「出席の時手を挙げてませんから」と言って出て来てしまった。 前の年と同じ様に試験は出来たが、今度はBしか貰えなかった。 正義よりも彼女の方が強かったみたいである。

三年になり、皆ゼミに入る時期を迎えた、単位さえ充分取っていれば必須という訳じゃ無かったが、私はAの数が少なかったので、必ずAを呉れると言われていた先生を選んだ。それはたまたま親族・相続法のゼミだった。 その当時はそれが将来役に立つとは夢にも思っていなかった。 三年生の時は、合宿位しか覚えていない。 丁度万博が大阪で開催された年で、彼女と二人で一日見物したのを覚えている。 パビリオンは有名なのは皆混雑していて、覚えてるのは食事をしたスイスのパビリオン位である。 食事が出来る場所を探していて、たまたまアルジェリアのパビリオンを見付けて中に入ると、北アフリカ人のお兄さんが飛んで来て何か一生懸命歓迎してくれているみたいだったが、言葉が解らない。 丁度その頃私は口髭をたくわえていて、彼女の作って呉れた、ポプリンのサファリ・スーツを着、年子の兄がヨーロッパで買って来てくれたシガリロをくわえていたので仲間と思ったらしいとその時感じた。 結局そこは高級でフルコースしか無いみたいなので、取り止めになった。 この年子の兄が、ヨーロッパ旅行に行ったのは、以前私だけがアメリカに連れて行って貰った時に、自分が日本に残らされたのが、余程辛かったらしくその頃私より四歳年上の姉も米国に留学していた事も相まって、母が大学のツアーに参加するのを特別に許したからであった。  万博会場を後にし、私達は大阪で別れ、彼女はそのまま大阪のお父さんのマンションに行き、私は一人で和歌山に向った。 大阪から和歌山迄は近いものとばかり思っていたが、着いたのは結局夜中になってしまった。 駅からタクシーでホテルに着き、先発で行っていた同級生の顔を見てやっと安心したのを覚えている。  その時も先輩の女性に気を惹かれて失敗してしまった。 ベランダ伝いに先輩の部屋に入り、他の先輩に嫌がられて告げ口され、ある先輩の猛者に腹を蹴られて部屋を追い出されてしまった。 その嫌がった女性は、卒業してから大分経った後のゼミのパーティーでお会いした時も、私の顔を見てあからさまに嫌な顔をされたので、余程私が嫌いらしい。 私のゼミの先生は人工受精児に関する法律の権威だったので、私の卒論のテーマは「人工受精児の法的地位」になった。 各自研究成果を発表する時間があり、私の番が回って来て、私としては一生懸命やった積りになっていたが、誰かが紙に「先生眠っている」と書いて、私の方に向けたので先生の方を見ると、こっくり、こっくりして舟を漕いでいたので、途端にやる気が失せて、大部分端折ってしまった。 結局卒論は一部清書が間に合わなくて、そのまま製本に出してしまい、恥を残してしまった。

四年の時のゼミ合宿で北陸に行った時、車で来ていたのが居て、運転するのが嫌だと言うので、引き受けた事があった。 永平寺とか東尋坊とか長尾城趾だとか色々名所旧跡を回って帰って、途中石川県で忍者屋敷というのを見物していた時に、駐車違反で切符を切られ、頭に来て富山県を走っていて、今度はネズミ捕りに引っ掛かってしまた。 たまたま、親知らずを抜ける際、カーブで渋滞していて、私が、「こういう時が危ないんだよ」と言いながら路肩に車を寄せた途端、一つ後ろの車迄、五台位の車が玉突き衝突し難を逃れた事があり、命を救った事に免じて、罰金は四人で二千円ずつ負担して貰う事になった。 帰ってから石川県警から葉書が届き、「これ以上違反、事故を重ねると、行政処分の対象になります」と持ち点が残り一点になった事の通知だと知り、暫くの間、その後の富山県でのスピード違反の事が気になって仕方が無かった。 結局、コンピューター処理が富山県の方が早かったとみえ、次の書き換えまで何も無かったので助かった。

一度町内に住むいつも家の前をにこにこして通る女性に気を取られ、これが彼女に嫌われる最初の原因になってしまった。 「可愛い子を見付けたけど、どうしたら掴まえれるかな」とすぐ上の兄に相談すると、「選挙の日だったら、待っていれば必ず通るんじゃないの」と言ったので、グッド・アイディアとばかり、そうする事にした。 選挙の日に家の前で待っていると、彼女が通ったので、追い掛けて行き、「僕、貴女の事凄く気に入って居るんですけど、名前を教えて頂けませんか」と聞いた。 彼女は早生まれで私より学年が一年上だという事が判った。 又、私の長兄と彼女のお姉さんが中学の同級生だとも判った。 彼女が出会いが出会いだけに親にも言えないし付き合えないと言うので、暫くは彼女が銀座の三笠会館でお料理教室に通っていた行き帰りに電車の中のデートを楽しんだ。 一度彼女を家に連れて行き、母に紹介した事がある。 その時母は、嫌みたっぷりに、彼女に、「芳秋にもいいガールフレンド居ないかしら」と、言ってのけたのである。 その時私は母を、なんて嫌味な女なんだろうと思った。 それ以来その女性には会わなかった。 次に道で出会った時彼女は既に赤ん坊を抱いていて、同じ町の方と結婚したと言っていた。

或時、専門科目の履修でいつも一緒の科目を履修していた彼女が、私が選択したフランス法ではなく、英米法を選択すると言い出したのである。 これが、別れの前兆だった事を私は気付かなかった。 私と仲良くしていた慶応高校から来た友達も英米法を取り、二人で仲良くするのを見て、私はいつも焼もちを妬いていたのである。  皆で横浜に遊びに行ったりしても彼女はその男の車に乗り、わざとスピードを出させて、後ろから着いて行く私の車を離そうとしたり、シンクロのクラブのパーティーだと言って、会いたいと言う私を避けたり、不審な行動が目に着く様になってしまった。 彼女は他の女性に目を向ける私から離れたかったのかも知れない。 結局彼女はその男に惹かれ、恋をしてしまうのである。  或日私はたまらなくなり、傍の喫茶店でその男友達に聞いたのである。 すると、その友達だと思っていた男が「俺がいけないんだ」と告白して、私は狼狽してしまい、一人の胸にしまっておく事が出来ず親に打ち明けてしまったので、事は大事になってしまい、結局破局を迎える事になってしまったのである。  国際法の単位を落としそうになり、卒業が危ぶまれ、担当の教授が厳しい人で有名なので、親父の従兄弟が当時通信教育学部の理事をして居たので頼んで貰った事がある。 その理事が、私のゼミの先生とも仲が良い事も判かり、そちらからも頼んで貰える様お願いした。 雪が降る冬の寒い日に教授を外で待ち、やっとの事でつかまえる事が出来てやっと卒業出来る事になった。  大学時代の四年間付き合った彼女が、卒業間際に二人が仲良くしていた友達と恋をしてしまい、別れる事になり、結局私はガールフレンドと男友達の両方を土壇場に来て一挙に失ってしまった。

就職活動

四年生になり就職活動を開始したが、コネの無い私は、大手の会社からは悉く書類選考で落とされてしまい、寒い二月頃から始めたのに、決まったのは暖かくなった五月だった。 一緒の年に卒業した兄と、当時キリンビールの総務部長をしていた、父の同級生の方に相談に行き、会社の雰囲気を見て到底駄目だと思い、こちらから辞退してしまったりもした。  祖母がたまたま女高師で伊勢丹の先先代社長の小菅丹治さんの奥様と同級生だったので、お願いして呉れるよう頼んだが、「孫がぺこぺこするのは見たく無い」と言って断られてしまった。 今から考えれば、この祖母の意見が一番私にとって貴重な意見だったかも知れないのである。 かと言って、私にはその当時相談する人間も周りに居らず一人頭を抱えてしまったのである。  父の従兄弟が当時、住友商事の副社長をしていたにも関わらず、落とされてしまったり、同じ頃兄も、母方の伯父が社長をしていた日本光学に入れて貰いたくてその伯父に頼み、父の子供では神経質過ぎるという理由で断られてしまうし、就職に関しては散々だったのである。  東急百貨店はどうかなと思い、澁谷の東急本店の人事部に聞きにいったところ、紹介者が居なければ駄目だと言われてしまった。 仕方が無いので、東急の五島会長と仲の良かった親戚の小父に頼んで、当時東急電鉄の秘書室長をしていた江ノ電の社長の息子さんを紹介して貰い身元引受人になって頂いた。 その時委任状を白紙の儘持って行ってしまった為、「委任状を白紙で持って来る奴があるか」と怒鳴られてしまった。 ようやく入社試験を受けさせて貰えた。 それ迄、常識問題集を三冊く位勉強してあったので、試験は簡単だった。 後から聞いたのだが、成績は上の方だったらしい。  面接では社長から「留年してるのは君だけだよ」と言われ、その時は既にもう一人いる事を知って居たので、「そうですか」と訝し気に答えた。 その社長の息子は二人共慶応でそれ程出来が良いほうでもないのに、ひどい事を言うもんだ、とその時思ったからである。 その社長は私の入社する前に亡くなってしまって別の社長になって居り、結局その社長の書いた語録で教育を受けただけに終わってしまった。  思えば私より六つ上の長兄が就職した時も、就職難の年で、私なんかよりもっと苦労していたのを思い出すのである。 それも法科でなく、経済を卒業した私より余程成績が良かった兄でさえそうだったのである。 この時程、学者の家が、実業界に弱い事を身につまされた事は無い。

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