自伝

店を開く

インド・レストランのオープニング・パーティーの後少しして、あの高校の後輩のM君が連れて行って呉れた、原宿のイラン・レストランの女主人から売り上げが低くてずっと家賃を滞納していて追い出されそうになっているので、店を何とか盛り上げたいから、仲間を集めてパーティーを企画して呉れるないかと頼まれた事があった。 前回と違い今度は有料なので人が集まるかどうか心配だったが、引き受ける事にした。 会費を五千円に設定して、内容の打ち合わせをし、目玉にベリー・ダンスのショーを企画し全てが決定し、私がファックスで友人に案内状を送ってしまった後で、そこの女主人が急にけちり出して、ビールは一本ずつだとか、ベリー・ダンスは中止だとか言い出して私は腹を立ててしまい、折角友達に頼んで来て貰うのに、目玉のベリーダンスが無かったら私が友達を騙す事になってしまうと思い、そんな詐偽まがいの事は出来ないと怒ってしまった。 幸いにも嫌がる女主人をどうにか説得して、ベリー・ダンサーも呼び、各方面の友達も来て呉れ、普段のアーティストだけのパーティーと違い、異業種の人が交われて大人のパーティー風になり、私がその頃N子にべったりだった為に一部の女性の友達を失う事になったとは言え無事パーティーは終わった。

その後も私はどうにかして私の温存していた企画に日の目を見せようと、あるアメリカのオートバイの会社がユーザー友の会のマネージャーを募集しているのを丁度新聞で見付けて、履歴書と企画書を郵送して面接させて頂き、人事の担当の方とお話したりして、その方から、「私達の意図している友の会と、柳田さんの考えている友の会のイメージが食い違っている」と指摘を受け、自分でもそう感じて、自分からその場で辞退して来たりしていた。

そんな時にあの広尾のカフェの事件が起きてしまい私がすっかり滅入ってしまっていた頃、たまたま参加した、成城の画廊に居た頃私に何かと暖かく接して下さっていた御婦人が主催されていた、異業種交流会に参加する機会があって、その時お会いしたS氏と事業の企画を立てたり、人生を語り合ったり出来、その後大事にしていたN子との悲しい別れも何とか切り抜ける事が出来た。 そんな中でも相変わらずアーティストのパーティーには参加していたし、そこで出会ったイタリア人の女性と食事をしたり、ハワイの実業家の方が日本に来ると聞けば、あのラーメン屋のKも誘ったりして、一緒に食事をしてビジネス・チャンスを模索したり、インド人の友達と仕事の事を考えてみたりして、退屈する事は無かったものの、社会とのずれを隠す事は出来なかった。 その頃、姪がイタリアに行きたいと言って来たので、付き添いで行ってみたりもしたが、その子ともペースが合わず、ギクシャクした旅に終わったりもした。 挙げ句の果てにイタリアに着いた途端、私の泣きどころでもある差し歯が抜けて、みっともない思いをしながら、旅行を続けなくてはならず、成田に着くとすぐ歯医者に直行したのである。 イタリアから帰ってからも、たまに豪徳寺に居た頃知り合ったアメリカ人のCと飲みに行く事はあったし、その年のクリスマスは私の仲良くしていたイタリア人のシェフのお姉さんがたまたまイタリアから来て居たので、店が終わってから三人でほろ酔い気分で四ッ谷のイグナチオ教会に繰り出して、ミサの最中に私の友人が、「神の小羊」という部分をお姉さんに「ラム」と訳さずに「マトン」と訳して、皆で笑ってしまい、他の信者からひんしゅくをかってしまた為に、聖体拝領の時神父から抜かされてイタリア人の友人が猛烈に抗議したりして、年の終わり迄話題には事欠かなかった。

年が明けてからも、ラーメン屋の坊やのK君と、ビデオ・ショップのチェーン店を開く計画を立てたり、アーティスト仲間で映画監督をしているTAという方の作品に臨時で声だけの出演をしたりして時間を過ごしていた。  そんな時に私はある計画を思い付いた。 イタリアに旅行した時に見た、数々の絵葉書、小物だとか絵画のレプリカの店を開く事である。 東急百貨店を辞めた頃考えていて親戚の小父に「美術品だって物じゃないか」と言われたあの計画を実行に移してみようと思ったのである。 私は早速元ラーメン屋のK君を誘って、企画書を作成し、イタリア貿易振興会に依頼して業者リストを取り寄せ、早速挨拶状をファックスしてみた。 期待に反して数十社宛てに送ったファックスに返事をくれたのは、たった一社で、それも、「申し訳ございませんが、御希望にそえません」という断わりの手紙だった。 イタリアの店で貰った名刺を見て、店に直接電話をしてみたりもしたが、矢張り良い返事は貰えなかった。

私は予定を変更し、ハワイで知り合った、ショッピングセンターでアートショップを経営しているE氏に相談しようと思い立ち、K君と忙しくなる前に旅行をしようと持ち掛け、ハワイに行く事にした。 ショッピングセンターで見本を買い集め、商品に載っている住所宛てに手当たり次第に手紙を出した。 中には日本の代理店を通して呉れと言う会社もあったが、それでも商品は続々見付ける事が出来た。 送られて来たカタログの中に、私がイタリアで名刺を貰って、出る前に電話して断られた店で見て以来私の脳裏に焼き付いて離れなかったルネサンスの絵のカタログを見付けて私は小躍して喜んでしまった。 私はその時ひょっとして自分がイタリアで気に入った絵葉書も扱っているのではないかと気が付き試しに一枚送ってみると、同じ会社で扱っているとの返事を貰い、これこそ神の助けと思いその会社の商品をメインにする事に決め、後の一社ははアメリカのポスターを扱っている会社と直接取り引きする事に決め、輸入は二社に絞り込んで、後は国内の問屋から仕入れる事にした。 海外送金も貿易の経験があったのでスムーズに出来、一件の事故も起きなくて助かった。 複製画を扱っている会社にも出向き、そこの部長にお願いして保証金の額を下げて頂き、展示用の見本は貸して貰える事になり救われた。 大部分の会社が先払いを要求して来たにも拘わらず私がメインに決めた会社だけは、注文書をファックスするとすぐ商品を送ってくれ、勇気付けられた。 瞬く間に私のアパートは商品で埋もれて行った。

場所も自由が丘の不動産屋を数件回り、すぐに決まった。 内装は、新入社員時代からの友人であるデザイン会社を経営する、私が英国系の企業に居た時に交流が復活していた、K氏に頼みスムーズに進んだ。 金を掛けない様に工夫してくれて、工事の時、「まるで高級催事場みたいだな」と二人で笑ったくらい早く出来上がって行った。 用度品も浅草橋の問屋で一番安いのを見付けそろえた。 マークも私が社命変更の時に登録してあったマークをK氏にあしらって貰いウィンドウのロゴもイタリア風で洒落たのが出来た。 出来上がりは予想通りのイメージで完璧だった。 準備している時は、自分がそれ迄培って来た物が全て利用出来て、非常に充実した日々だった。 定休日も商店街に合わせて水曜日にし、扱い商品リストも出来上がり、キャッシュレジスターも購入して準備は瞬く間に出来て行った。 Kが着る物が無いと言うので、近くの洋服やのチェーンで一式揃えた。 DMを印刷したが開店日が最後迄特定出来ず、仕方が無いので開店早々発送する事にした。

開店

開店初日は姉夫婦も花を用意して来てくれ、異業種交流会のS氏も花束を持って来店して下さり、先ずは無事開店出来た。 二、三日してから、宝石商のI氏も御夫婦で来てくれ店の中で一番高そうなチェスセットを買って呉れた。 固定客を獲得する事が必須であると思い、印刷してあったDMを日伊協会の会員と、複製画の会社の部長に頂いた中学校の名簿の学校の美術科の先生宛てに送付し、残りは新聞の折り込みにする事にした。 K君の付き合っていた彼女が広告代理店に勤務していたので協力して呉れ、雑誌の編集者の名刺が手に入ったので、DMを送付出来た。 母も私の自宅に電話を呉れ。次の週に来てくれる事になった。 全ては順調に推移するかの様に見えた。

然しKの調子が段々おかしくなって来てしまった。 接客はラーメン屋の経験しか無かったKは、極度の緊張で疲れてしまったのだ。 私もその時それをフォローして上げられる器量が不足していて、彼がミスをする度に苛つく様になっていた。 彼が辞めた前日、私が爆発して怒鳴ってしまったのが原因で、彼は萎縮してしまたのである。 私が彼の着ていた洋服を見て、「着る物迄買ってやったのに」とつい口走ってしまったのがいけなかった。 彼はその場で洋服を脱いで、「もう自分には耐えられないから、勘弁して下さい」と泣きながら土下座して言った。 丁度開店一週間目に当る次の日にK君のお母さんが来店し、彼は引き取られていった。

私は再び独りになってしまった。正直言ってショックだった。 今迄積み重ねて来たものが脆くも崩れ去った事に直面して私は狼狽し荒れた。 営業して行く流れの中で、彼の後継者は必ずきっと現れるだろうと信じて取り敢えず自分だけで前進しようと自分に言い聞かせたが収まらず、彼の自宅に電話して電話に出たKに私は怒鳴り、「お前の為に一体俺が幾ら使ったと思ってるんだよ」と再び責めてしまったのである。Kは増々畏縮してしまった。 今思えば、大金を投じて沢山の人の手を借りてやっとオープンした店の重さに押し潰されそうになり、その時の私は余りにも身勝手に、「この店は、Kが何か仕事をしたいから、俺が企画してやったんじゃないか」と考えて全ての自分の責任を回避していたのである。

Kに電話で怒鳴ってしまった一週間後に、彼の母親が店に怒鳴り込んできた。 入り口で興奮する彼女をなだめて事務所に招き入れた途端、彼女は、「息子を只働きさせて」と言った。 私はその時は未だ冷静で、「給料の締め日迄の分は日割りでお支払いしましたよ」と答えた。 母親はそれについては納得した様子だった。 その後彼女が、「結局柳田さん彼方が息子を使いこなせなかったんじゃないの、彼方が育て損なったんじゃないの」と言ったので、私は、Kが辞める前に泣きながら私に、「僕は母親に似て、躁鬱の気があるんです」と言っていたのを思い出したので、その言葉に反応し、「育て損なったのは彼方の方じゃないですか」と切り返してしまった。 その途端Kの母親は大人しくなって、やがて帰って行った。 母親に怒鳴り込まれた私は、又憤りが込み上げて来てしまい、Kに電話して、「悪いと思っているんだったら、開店資金の一部の三百万位はお前が負担しろ」と言ってしまったのだ。 今度は父親から電話があり、「彼方は、息子の三百万よこせと言ったそうですね、一緒に始めたには違いないけれど、息子は彼方の只の使用人でしょ」と言った。 Kの父親の言った事は筋が通って居り、その時私は改めて自分の置かれていた立場を認識した。

ルネサンス・クラブ

Kが辞めてしまった後も暫くは雑誌の取材だとか、雑用にかまけていて、時間を持て余す事はなかった。 品揃えも周りの意見を取り入れて段々に良くなりつつあった。 あの宝石会社で出会った高校の後輩のNも入り口の階段脇に設置したショーウィンドウのディスプレイをちょくちょく店に顔を出して手伝ってくれ本当に助かった。 事務所にもブラインドを付け、コンピューターを設置して経理ソフトも新しく購入して、段々に事務所らしくなって行った。 休日には友人も顔を出してくれたりする様になって来た。 店を持っていると露出しいる分だけ人に会うチャンスも増えて行った。 地域の広告紙にも宣伝の記事を載せたりして、積極的にPRにも努めてみた。

その頃から私は、ルネサンス・クラブという会を設立し機関誌を発行する事を考え始めていた。 梅雨に入ると段々毎日店に通うのが億劫に感じる様に成って来たが、それと裏腹に客数は増えて行った。 店にもルネサンスの本を、家から少し移し、雰囲気作りをし始める。 アーティストのパーティーで知り合ったTY氏とも、新しい企画の打ち合わせを頻繁にする様になって来た。 TY氏から、コンピューターに詳しいK君という好人物を紹介され、入力関係は彼にやって貰う事に決定して、手間代として五万円渡して暫くして、TY氏がイタリアに行くのでと言って三十万を請求して来た時は一時たかりかなと思った事もあったが、彼が関西人である事も考慮して最初の内は、成るべく人は疑わない様に努力していたがその内少しずつ心配が増して来ていた。 その頃イタリアに行っていたYT氏から葉書が来て、「イタリアではルネサンス協会はコモンセンスだ」と書いてあったので勇気付けられたりもした。 彼のお姉さんも店の売り上げに協力してくれたリしたので、そんなに悪い奴でもないのかなと、自分の猜疑心を嫌に思った事さえあった。

TY氏が帰国してから、打ち合わせをしている時に、彼が企画した雑誌で創刊号だけで続かなかったのがあるので、それを名称を変更して続けようかというアイディアも出た。 その頃からTY氏が金の事ばかり口にする様になり、少し不信感も出て来たが、ルネサンスの事に彼は非常に詳しかったので、多少の出費は覚悟で進めようと決心した。 やり方についてもいちいち口出しせずに少しの間一応彼のやり方に任せる事に決めた。 原稿も着々と出来上がり、印刷やの見積もりも出て、名前も私の希望した「再生紙」に決定し、作業だけは順調に進んでいるかの様に見えていた。 少ししてから、彼がイタリアに行く前に支払った三十万とは掛け離れた、五ヶ月で二百万という数字を提示して来たのでびっくりしてしまった。 その頃は店に居ても突然不安が襲って来て凄く悩んでしまい弱気になり、思い余って母に相談してしまった。 母が、「五百万円捨てた気持で頑張ってみなさいよ」と、励まして呉れたので少しは安心したが、自分の金なので、第三者にも相談しようと思い、開店前に母から紹介された、「気」を研究されていたW氏に相談した処、「詰めの甘さだけに注意しろ」とアドバイスして下さった。 結局私は彼に二百万の金を恰も自分が気持が大きい人間の様な顔をして支払ってしまい、忠告された詰めの甘さをもろに出してしまった結果になってしまった。

八月になって、TY氏が一人の女性を紹介して来た。 Yちゃんという子で、音楽関係の企画をしていたがっていたらしかったが、一度TY氏が連れて来た時に面接して、少しの間連絡もしないで放っておいたが、夏休みに入るので電話をして一緒に食事をした。T女学館の出身と聞いて安心した。 彼女がその時、「最近出ている様な、受け狙いの雑誌は嫌いなんです」と言ったので、同感して話が弾み、それ以来ずっと手伝って呉れる様になり、退屈しないで済んだ。 或日深夜営業のチェーン展開をしている、レストランのオープニングパーティーで後輩のNに紹介された、Mとばったり出会い、店にYちゃんが加わった事が気に食わなかったらしく私に絡んで来たので、入り口でテキーラを飲まされた事もあって、怒りが爆発し危うく殴り掛かりそうになってしまい、出口に連れ出して、「家に帰れ」と怒ってしまった。 その時もTY氏が二階のテーブルに陣取って気炎を上げていたので私は少し彼に対する疑いを深めた。 その頃から私のTY氏に対する不信感が増々募り初めて、何の為に二百万も出してしまったのか悔やみ始めていた。

その頃母とのコミュニケーションも回復しつつあったので、母にも一度TY氏を紹介し様子を見ようと、三人で自由が丘の駅の近くでお茶をした事があり、その時はTY氏も神妙にしていてぼろを出さなかった。 それでも「再生紙」の作業だけは進んでいて、気が気じゃなかったが、他人任せにしたのが災いして、誤字脱字が多くてとても人に配る様な代物では無かった。 その頃からTYは私に、自分の乗っていたイタリア製のバイクに自由に乗って呉れとか媚びを売り始め、私が不審に思い始めた矢先に、私とYとTYと三人で私の運転する車でTYの当時住んでいたマンションの近くの麻布十番を走っている時、鞄から何やら一枚の原稿を取り出し、それを自分が今から印刷に持って行くから見て呉れと、運転している私に手渡して即断を迫ったので、私はTYの強引な態度が腹にすえかね、突然車を停め外に出て、TYも車から出して道の真中で怒鳴り付けた事があった。

八月に入ってからTY氏の件を映画監督のTAさんとその友人のSCさんに相談した事があり、TY氏もその事に感付いて逃げ始めていた。 TY氏が話していた雑誌もSCさんが金を出した事が判ったが、彼女の場合は五十万で済んだから良かったと同情されてしまった。 それから、段々彼の悪い評判が出て来て、それを聞いている内に、私は失敗したと思い始め、支払った金を返す様に頼んだが三十万しか取り戻す事が出来なかった。 それならそれで二百万円分の仕事をして貰おうと、その旨ファックスすると、その場しのぎ程度の企画書をファックスして来て誤摩化されてしまった。

その頃から映画監督のTAさんとカフェの企画を練り始め、一緒に青山あたりの物件を見に行った事もあった。 Yもいっしょになって考えて呉れて、一時は真剣に考え、以前一度一緒にレストランを開こうかと話していた事もあるEに相談に行ったが、前回私が断ってしまい、それから付き合っていた日本人の女性と結婚したので、奥さんの家族と計画を進めていたらしく、コンサルタントならやってやると言われ、高い事を言ったので、断念した。 結局イメージに関してTAさんと意見が食い違い、彼は無色透明のイメージを主張し、私はルネサンスに凝って居たので結局お流れになってしまった。 たとえ始めていたとしても、その時の私の実力では旨くは行かなかったに違いない。

その頃の私は、私がへら鮒釣りに現を抜かしていた時に税理士と話した通り、店はかろうじて開いてはいても、美術品販売業から販売を取った状態であり、一銭の金にもならない企画屋に成り下がっていた。 ニューヨークの後輩のNYも、色々考えてくれ、何とか日本とアメリカで共同して何か一つ事業を纏めようと何かと協力してくれ様としていた。 彼はその時、米国内では本来耳の不自由な人達の為に販売されている、キャプション付きのビデオ映画を、英会話の教材として日本のパートナーと共同で学校に販売していた。 ビデオ映画は著作権の関係で大っぴらに宣伝する訳にも行かず、その為数も捌けないので、彼としても他の何かを探していたので、日本に来る時は必ずと言って良い程、何か商材を持って来てくれた。 私はそれをどれ一つ纏め上げる事が出来なかった。 そんな時彼から連絡が入り、以前日本に来た時に話に出ていた、レオナルドダヴィンチの建築の図面を、コンンピューターで立体に起こす企画を送って来てくれた。 彼の友人のイタリア人の女性が、サウス・カロライナか何処かの大学の研究室で見付けて来た物らしかった。 彼としては私が販路を見い出せれば、その大学の研究室と交渉して立体図を完成させ、一つの事業として商売に繋がると考えていた。

その企画は私には少し荷が重過ぎたので、私は躊躇してしまい、中々色好い返事が出来ないで居ると、彼から実際の金額の提示があり、その中に彼のサウス・カロライナ迄の出張旅費迄含まれていたので、私が丸ごと負担は到底出来ないと判断して、彼に連絡を入れその旨伝えたのだが、彼としては私を顧客として見て居たのでそこで意見が食い違い、私は共同で事業を開発したいのであって、「私に売れば、はいそれ迄よ」では困るという内容のメールを送り結局彼との話もそこで途切れてしまったのである。

異業種交流会でお会いしたS氏も色々心配して下さり、最初の内はよく打ち合わせしていたのだが、どれもこれも旨く纏まる物が見付けられなかった。 一度彼からプリントTシャツの企画を頼まれたから考えてくれと言われた時、私が、「売り値は幾らで枚数はどの位ですか」と聞いた処、S氏が、「九百八十円で三百枚だ」と言ったので、私がその場で、「その値段では日本製は無理だから外国製しか無いし、外国の段ボール箱にはダニが居ますから事務所に納品させたらひどい目に会いますよ、その数量だったら色指定は無理だから、色はアソートで納品は都内一括納品で受けて下さね、業者に納品させますから」と、念を押したにも拘わらず、私が間に入ってコミッションでも抜くかと思ったのか、結局自分一人で手配してしまい、その上私の言った事を一つも守らなかったので、事務所に納入されてしまい、一時は事務所の中にカートンが何箱も山積みされ人間が居る場所が無くなってしまい、ダニは出るし、納品する時のトラック代は嵩むし、その上後から一色だけ追加注文を受け、彼も困っていたが後の祭りだった。 その有り様を見て私は、「だから言ったでしょ、プロの言う事は聞く物ですよ、そんな枚数で私が幾ら抜けると思っていたんですか」と、私を疑ったS氏につい嫌み迄言ってしまった。

それでもその後も、中国から田七人参を輸入する企画を立て、販売のシステム作りをお手伝いさせて頂くという話もあって、一緒に当時既に、田七人参を扱っていて、中国に知人も多く幅広く商売をされている方のお話を伺いに、その方の事務所があった、千葉迄わざわざ行ったりした事もあったが、話が二転三転して、結局私に何処から仕入れているのかを知られたくない様な感じだったので、疑い深い人だなと思って、それ以上は詮索しない事に決めた。 その時にS氏が商品のネーミングを考えてくれと私に頼んで来たので、私は頭を捻って、受験生の為に「赤門突破」だとか色々出したのだが、「赤門」は中国人には刺激的過ぎるとか言ってどれもお気に召さない様子なので変だなと思っていたら、結局自分で考えた産地の名前を取った、「雲南紀行」に決めてしまった。 それを聞いた時、私はその名称も悪くは無いと思ったのだが、頭に来たので、「胡散」と言うのはどうかと嫌みを言った積りだったが、S氏はその意味が理解できず真面目な顔をして、「どういう意味なの」と聞くから、私が、「胡散臭いからだよ」と言うと、さすがに鈍感なS氏もムッと来た顔をしたので、私は、「やってやった」とほくそ笑んだ。

その後めでたく、かの「雲南紀行」の容器も決まり、ラベルも刷り上がり、お手伝いの女性迄も決めて、いざスタートと、皆が集まって販売会議を兼ねた記念のパーティー迄開き、その席上でS氏が、彼女をテレビコマーシャルに起用したいと発表迄していながら、突然、理由も聞かされずにその話が流れてしまうという事もあって、その頃からS氏には余り期待出来そうもないと思い始めていた。 その頃は未だ、大手テレビ局の副部長をされていた奥様がお手伝いされていて、未だお元気だったが、その矢先お母上が亡くなられてしまい、その頃奥様が家を購入されて一人で御引っ越しをされてしまったので、お母上と同居されたかったS氏と旨く行かなくなってしまい、お独りで事務所で生活されたりして、元気を無くされてしまった。

その内に彼のビジネスパートナーの会社が倒産しそこの社長が姿をくらましてしまうという事件が起り、その頃扱っていた商品の未払いという事態が生じ、元々フランスで哲学を専攻されていたS氏は増々哲学的になってしまったのである。 その後も私の店を度々訪ねて下さり、ある新興宗教から数億の金を引き出せるからと、「アート・インターネット」という企画を依頼されたが、何か信憑性に欠け心配になって来て、ニューヨークからNYが来日した時に、一度一緒に事務所を訪ねた事があった。 その時我々の前でわざと相手に電話して、突然私に振って来たので私がその電話に出ると、相手から、「俺の考えた企画を横取りしようたってそうはさせないぞ」と突然怒鳴られてしまい、私が、「私は只Sさんに頼まれて企画書を書いただけで、横取りだなんてめっそうも無い」と言うと、その電話の相手に、「企画書なんて誰にだって書けるんだよ」と言われてしまった。 その時、NYにS氏が得意そうになって棚から出して来て見せたファイルの色がもう何十年も前の物の様に見えたので、私は、「ああ、この人は過去の栄光が忘れられない人なんだな」と思った。

店を閉める直前に一度実家の貸し画廊で在庫を少しでも減らそうと、セールをした時もS氏にお手伝い頂いた事があったが、その時は既にその先御一緒出来る状態ではなくなってしまっていたみたいである。 彼の帰られる時のガクッと肩を落とされた後ろ姿が今でも私の目に焼き付いている。 そのうちにS氏とも連絡が取れなくなり、私もその頃の関係先に連絡を取り探したのだが、一部の人間以外には居場所を明かさなくなってしまい、私はその一部には加えて頂けなかったとみえ、それ以来お会い出来なくなってしまった。

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