自伝

六本木

どういう訳か私は六本木が好きである。 中学高校が近かったせいか、何故か親しみを感じる。 高校時代に授業をさぼって煙草を吸っていた、スナックも六本木だった。 初めて麻雀を覚えた雀荘のIも未だ同じ場所で営業している。 今でもその前を通る度に懐かしさが込み上げて来る。 大学の時付き合っていた元の女房と二人だけのクリスマスを祝ったのも六本木のケーキ屋だった。 会社に就職してから自分の給料で初めて通い出したクラブも六本木だった。 そこのバーでピアノを弾いていた女性が、私が店に入って行くと必ず私が好きだった、ブレンダ・リーの「レット・イット・ビー・ミー」を弾いてくれるのがたまらなく嬉しかった時期もあった。 その頃は未だカラオケも無い時代で、グループサウンズの生き残りがギターの弾き語りをしていて、たまには伴奏して私の歌う後から着いて来てくれたりもした。 初めてそのバーのママに連れて行って貰った料理屋も、場所こそ変ったが未だ営業している。 ろくな物を食べた事が無かった私は、ブリの照り焼きやなめこ汁があんなに旨い物だとそこで初めて知った。 年子の兄と交差点を隔ててテリトリーを分けていた時代もあった。 高校の時交番の警官に楯突いて輔導されそうになった時と同じ交番に五十近くなってから、大学の同級生と久し振りにあって外国人のいかがわしいクラブで財布をすられて駆け込んだ事もあった。 昔私がハワイの白木屋に勤めて居た頃、恐くなってダンヒルのライターを四割引で売ってしまった頭に傷を入れたプロレスラーを道で見掛け、私が、「俺の事覚えているか」と聞くと、「昔ハワイでダンヒルのライターを負けてくれた人だろ」と言われ、嬉しくなった事もあった。 不動産会社に居た頃に飲んでいた、新宿歌舞伎町の深夜営業のフィリピンクラブで私がヤクザのお兄さんと一緒にカラオケに興じていた時にそこで働いていたホステスと九年ぶりに再会したのも六本木のクラブだった。新宿に居た頃は只横に座って居るだけで話も出来なかった十九のあどけなさの残っていた女の子が再会した時は二十八の立派な女性になっていた。 たまに新宿の歌舞伎町や銀座とか別の場所に河岸を変えていた時期もあったが、いつの間にか六本木に引き戻されていた。 私にとっての六本木は、民俗学的に言えば、私のフィールドであり、マーケティング的に言えば定点観測の場所でもある。

龍土町

東急百貨店を辞めたばかりの頃に会ったジャズピアニストがピアノを弾いていたTというジャズ・バーは、六本木の防衛庁の前の道を少し入った龍土町にあった。 その頃から、そのジャズ・バーに私はよく行く様になった。 その頃は別に意識もしなかったが、龍土町は昔祖父が明治時代に「龍土会」という会を文学者を集めて開いていた龍土軒というフランス料理店があった場所で、今その場所はガソリンスタンドになってしまっているが、四代目が西麻布に場所を移し同じ店を開いている。

ヘッド・ハンターのTJ氏ともそこのバーで出会った。 たまに途切れたりしていたがTJ氏とは未だ交際が続いている。 そのTというジャズバーはオーナーが元々ジャズが好きで、趣味でやっている様な店で、一年位顔を出さなくても、同じ様に迎えて呉れ、逆に前の日と違う女の子を次の日に連れて行っても、「柳田さんお久し振りです」と言って呉れる位バーテンもプロに徹している人間が居て私はその店が気に入っている。 たまに私がその店の雰囲気に合わない女性を連れて行ったりしてしまうと、次の時私がその店に顔を出すと、必ず指摘を受け、バロメーターの代りにもなった。 その内そこのバーテンの一人が独立して、近くに自分の店を構えたので、たまにそこにも顔を出すようになり、段々テリトリーが拡がっていった。 TJ氏の会社も当時は未だ景気が良かったとみえ、その同じビルの五階にあるLと地下一階にあるCにも連れて行って貰った。 五階のLのママの御主人は黒人のジャズドラマーでその店にもジャズメンをよく見掛ける事がある。 そこはインターナショナルクラブでホステスは各国から来た外国人ばかりだった。 私が豪徳寺に居た頃一緒に住んでいたリバプールから来たJもここで会った子である。

一度自由が丘で店を開く前に、ラーメン屋で会ったKと車で澁谷を走っていた時、東京銀行の前でアクセサリーを売っている外国人の女性を見て、私がKに、「ああいう子みたいなしっかりしている子が居ると良いな」と言いながらその時はそのまま新宿方面に抜けてしまい、次の日にLにKを連れて顔を出した時席に付いた子が、「私、昼間は澁谷でジュウェリーを売っているの」と言ったので、思わずKと顔を見合せてしまい、私がその子に、「昨日澁谷を通った時見掛けて、二人でああいう子が良いと話していたんだよ」と言ってすっかり打ち解けて友達になった事もあった。 その子はイスラエルの子で兵役を終えて日本で金を稼いでからアメリカに行き、その後国に帰ってから学校に戻り、沙漠に植物を植える研究をするんだと目を輝かせて話して呉れた。 私はイスラエル人とは中学時代にアメリカに行った時イスラエル人ばかりのクラスに突っ込まれて以来相性が悪かったので、それ迄イスラエル人は避けて通って来たのだがその子だけは別だった。 その後パリに行き空港で会った人なつこいイスラエルの女の子が声を掛けて来て、「今度是非日本に行きたいんだけど仕事あるかな」と言ったので、たまたま私がその時使っていた銀座のクラブのライターを上げて、「日本に来た時はそこに電話してみな」と言ってしまった事もあった。

一度私はその店でトラブルを起こした事があった、会社のグループで来ていた客の中の一人の若い男が上司から言われ店内で所構わず写真を撮りまくっていた時の事である。 フラッシュが眩しいので、鬱陶しく感じていた私が、何とか我慢して、カラオケで歌を歌っていた時、その男が私とカラオケの機械の間に立って人の事を無視して、写真を撮ろうとしたので、一時ディスプレイの文字が見えなくなってしまったので、私はその時、そいつが又今度何かやったら、一言言ってやろうと席に戻って酒を飲んでいると、悪い事に又同じ男が私の席の前で無神経にフラッシュをたき始めたのである。 ムッとした私はその男に向って、「お兄さん眩しいから止めて呉れないか」と言うと、その男は席に戻ってそれを上司に報告したらしく、少しの間はは止んでいたのだが、その男がやおら意を決した様に立ち上がって、今度は前よりも悪くわざと私を無視するかの様に再び写真を撮り始めたのだ。 その時私はその状況に耐えられなくなり、私が仲が良いと思っていた当時その店のマスターをしていたSという男に、少しは注意する様に言ったのだが、そのグループの会社は店のお得意さんだったらしく、今度はそのSが私を無視したので、私はカッとなって、おもむろに店を出ようとすると、そこのママが勘定を取り立てに店の出口迄私を追い掛けて来て、傍若無人に振る舞っていた客の事には何も触れなかったので、私は通常より少し多い料金を、出口の傍にあったプランターに放り入れ、そのまま店を出てしまったのである。 その後家からSの自宅に電話を入れ、様子を聞いたのだが、「柳田さん一人の店じゃないのだから、少しは遠慮して下さいよ」と、当日に席に付いた私がかなり気に入っていた、Pというニュージーランドのホステスが私に言った言葉と同じ言葉を言って、私をたしなめる様に咎めたので、私が彼に、「それじゃ俺にもう店に来るなって言っていると取ってもいいんだな」と言うと、彼が何も答えなかったので、私は電話を切り、Sという元ボクシングのチャンピオンともそれっきりになり、その店にも暫くは行けなくなってしまったのである。 私は、その店も、そこのママも、そのSというマスターも、そのPというホステスも、当時かなり気に入っていただけに、その時の痛手はその分大きかった。 Sは、T大のボクシング部出身の元ボクサーで、一度はチャンピオンにもなった事もあり、その頃私も彼に、「マスターを辞めて、子供にボクシングでも教えたら良いのに」と言っていた位良い奴で、私が時々店がはねた後も一緒に飲みに連れて行ったりしていたので、彼も打ち解けて、当時私が惚れていた、イギリスからオーストラリアに六歳の時移民したJというホステスが、実は日本人の歯医者と結婚しているという事を教えて呉れたりして、実に重宝だったのである。 そのJとは、私がその事実を知ってしまった後も、彼女が結婚している事等知らない振りをして、当時私の気に入っていた広尾のイタリアレストランで食事をしたりビルの一階にあった、Tという件のジャズバーで帰り掛けに一杯引っ掛けてその後タクシーで送ってやったりしていた。 一時、その時私をたしなめたPに乗り換えようとも試みて、同じレストランに連れて行ったりしたが、すぐ国に帰ってしまった。 その子は小さい頃母親の仕事の関係で中国に住んだ事があり、中国も話せたので、当時上海の出張から帰ったばかりだった私には非常に興味深く思えた。

地階一階のCのママは御主人と広告会社やゴルフショップも別に経営していてビジネス・レディーだが、クラブの方にはまるで商売気が無く、私も気楽なので一人でもちょくちょく顔を出していた。 そこにも外国人ホステスも居たが、半分は日本人で色とりどりだった。 そのママの料理は格別で、たまには自宅で御馳走して貰ったりもしていた。 私が、駒沢に事務所を構えていた頃は、取引先の企画にも参加させて貰った事もあった。 私は、そこでも一度トラブルを起こした事があった。 矢張りそこでも、隣で飲んでいたサラリーマンのグループが余りにも五月蝿いので、苛ついた私が、一度声を荒気て独り言の様に、「少しは静かに飲めないのかね」と言ったのを、見咎めた、そこのTというマスターが、あわやもう少しで私が今度は本気で文句を言おうとした瞬間に、素早くそれを見付け、私を店の外に連れ出して、彼が自衛隊に居た頃に習ったのか、私の手首を掴んで武術の技か何かを掛けたので、その後一週間位病院に行きたくなる位痛んで、「あいつはママの事が好きで、俺がママと親しくしていたのが、ジェラスだったので、俺にいちゃもんを付けるチャンスを待っていたんじゃないか」と感じ、「これからは、気を付けねば」と思った。 その時は、私が未だ何もトラブルを起こさない内に、Tが待ってましたとばかりに飛んで来て、私に暴力を振るったのが気に食わなくて、そこのママに、「何だあの男は、訴えるぞ」と言ったのだが、そこのママも気の強い女性で、「訴えたければ、訴えてみたら」とと強気だったので、「こりゃかなわんわ」と、そそくさと支払いを済ませて帰って来てしまった。 幸い少し経ってから、ママの方から私の事務所に電話をくれたので、五階のクラブLみたいに、出入り禁止状態にはならずに済んだ。 次にその店に顔を出した時、その自衛隊崩れのTが、私に向って、「何か話があるんでしょ、私はいいですよ」と、挑戦的な目付きで言って来たので、その時私は自分の考えていた事に確信し、「俺から話す事何か何もないよ」と、やんわりととぼけ難を逃れた。

インターナショナルクラブ

インターナショナルクラブは昔から有名だった飯倉寄りにあったCというクラブの客だった人間が自分でも始めたというケースが多く私がよく行っていた、サーカスで象に乗っていたリバプールから来ていたJもその内の一軒で働いていた。 そのCというクラブは料金も高く、豪徳寺で一緒に暮していた片割れの歯医者の娘のHがここで働いていて、その時一度客として寄ってみた事があったが、如何せん高いので私の行く様な場所では無いと思いそれっきり行くのをやめてしまっていた。 その後一度、四国の老舗のHT社長と彼がパリでであったM氏という西麻布のビルのオーナーでHT社長の店の家主でもある新宿区の図書館で働いている方と三人で、たまには六本木にしましょうかという事になって出掛けた時も、その前に新宿のゴールデン街でしこたま飲んでいたM氏が酔っぱらっていて手の付けようが無かったものだから、ミネラルウォーターを注文しただけで、三十分も居ないのに七万五千円も請求され、酔っ払いは二度と連れて来るなと言う無言の挨拶だと感じそれ以来行かなくなってしまった。

その内そういったクラブの数も増えて来て、同じインターナショナル・クラブにも、おさわりクラブまがいのも出来て来た。 自由が丘で店をしていた時にルネサンスの企画でトラブルを起こしたTY氏に連れて来られたクラブもこの頃は、外国人ホステスの間でも透け透けの水着まがいの衣裳の着用を強要されると評判を落としていた。 警察の手入れにあって閉店を余儀無くされたこの店のマネージャーも元は高級クラブCの客だったと言っていた。 或日、リバプールのサーカスに居たというJがホステスをしていた店の支店で私が飲んでいた時に、何処かで見た人が働いているなと思ったら、あの高級クラブCで働いていたNという人間だった事もあった。 私も一時期は五軒のクラブを一時間ずつはしごしていた時もあった。 その頃時間制のクラブが六本木にも増え始め、調子に乗って飲んでいると後で法外な料金を請求され、至る所で店と客のトラブルが見られる様になっていた。

私が駒沢の事務所に居た頃、ヘッドハンターのTJ氏が私の仲の良かったホステスを売春婦扱いしたと私が激怒したのは、この店で働いていたJという子で、一度身の上話をして呉れ、自分の父親の家族はポーランドからの移民で、母親はカナダのインディアンの血を引いていて、十四歳の頃に父親から性的虐待を受け家で友達とマリファナを大量に吸って、床でひっくり返っている所を母親に見咎められ、そのまま家を飛び出し友達の家を渡り歩いて来たが、今は両親が離婚し自分はバンクーバーで母親と暮していると言っていた。 一度私が店の接客態度が余りにも目に余ったので、Jに、「お前らのしている事は、売春婦にももとる」と言った事があり、その時はムッとした顔をしていたが、後で反省して、「貴方の言う通りだ」と妙に納得していた。 一度彼女がビザの関係でカナダに戻った時があり、その時店のエージェントとして、「カナダから女の子を連れて戻って来る」と言ったので、私が、「お前が幾ら俺の友達でも、一応俺も堅気のビジネスをしているので、その筋の人の経営する店のエージェントとは付き合えない」と強く言って、一緒にしていた食事もそこそこに私が店から一人で出てしまった時があり、それ以来一時付き合いが途絶えていた時期もあった。 その後Jがカナダから戻ったばかりは、連れて帰って来たカナダ人の女性を如何にもボス面をして引き連れ、一時は彼女が颯爽と道を歩いている姿を見掛けたりしたが次に出会った時は、「貴方の言った通りだった」と神妙な顔をしていたので、再び友達関係が復活した。 その後その店が警察の手入れを受け、彼女は警察に呼ばれて、その時洗いざらい全てを警察で話してしまい、その後も、警察から身の安全を保証するという事を条件に、週に一度出頭する様に命じられ、警察の情報屋にされてしまった。 その頃私がJと道で偶然に出会い、彼女から警察の話を聞いたので、「警察から日当を貰う様に交渉してみな」と冗談で言ったら、彼女がそれを真に受けて警察で話したらしく、次に会った時に嬉しそうな顔で、「警察から日当が出る様になった」と喜んでいた。 その後店の経営者が逮捕されテレビでも報道される様な大事に至ってしまったので、Jは六本木には居られなくなってしまい赤坂の店に移る迄、身を潜める羽目に陥ってしまった。 その内に赤坂の店に移ったと電話をくれて、私も一、二度その店に顔を出した事もあったが、赤坂の店は六本木に比べ料金が高いので、行くのをやめた。 少し経って、その手入れを受けたクラブも名前を変えて、今度は以前のマネージャーがオーナーになって再び営業を始めて私もたまには寄ったりもしていたが、料金のシステムが前と変らずルーズで私も一度トラブルを起こし、嫌気がさして行くのをやめてしまった。

第二次ブーム・ベイビー達

或日私がいつもの様に六本木の通りを歩いていると、道で通る人に自分の働いているクラブのちらしを配っていた一人の日本人の女の子が私の目を引いた。 私は少し気に掛かったので声を掛け、その子と二言三言話してその日は他に行く所があったので、そのまま目的地に向った。 数日してから又同じ場所でその子を見掛けたので、悲壮な顔をしてちらしを配っていた彼女に向って、私が、「そんな事していないで、真面目に学校に行け」と又声を掛けると、彼女が細々とした声で、「学費稼ぎにしている」と言ったので、私はその子に向って、「その内店に行って話を聞いてやる」と言ってその日もそのままその場を離れたのだが、それ以来その子の事がやけに気に掛かっていたので、数日してから彼女の働いている店に顔を出してみたのである。 彼女はTKと言って、青山学院の一年生だという事が判り、親が離婚してしまい、それ以来学費稼ぎにその仕事を始めたと言って至って真面目そうな子に私には見えた。 その店は私の趣味とは程遠いクラブだったので、一応付き合いでボトルを入れてはみたが 落ち着かず、彼女もその店では若い客に人気があり、指名も多かったので、席から席に移り私の居た席にも長時間付けなかったので、後日昼間話す事を約束してから私は店を出てしまった。

その後一度昼間会って詳しく話を聞くと、自分の父親は慶応の法科を卒業して、丁度私と同い年であり、母親は白系ロシア人のハーフであり、現在は母親と暮していると話して呉れた。 青山学院も一年留年してしまい二度目の一年生だとも言っていた。 私はその当時、私の通っていた龍土町のクラブCで働いていた学生アルバイトの女の子とよく出歩く事があり、常々飲みに来る中年男性の態度を甚だ疑問に感じていて、自分の娘みたいな女の子を捉まえて最初の内は、「こんな仕事をしてちゃいけない」と説教をしていたかと思うと、酔っぱらって来ると突然態度を豹変して、同じ時間に自分の娘が別の場所でホステスとか援助交際をしているかも知れないのに、「俺と付き合わないか」と口説き出す親父達に嫌気がさしていたので、その青山学院のKTの私と同級の父親に、何だか強い憤りを覚えて、「俺が学費を出してやるから、そんなに大学を卒業したいんだったら、バイトは控え目にして、その分授業に出ればいいじゃないか」と彼女に言って、学費を振り込んで上げる事にしたのである。 私が飲屋で日本のサラリーマンを観察した限りでは、しらふの時は会社の愚痴を言うか、自分が会社で如何に偉いか自慢話しするかのどちらかで、酔っぱらって来ると必ず、「俺と付き合わないか」と言うか、外国人のホステスに対しては、「ハウマッチ」としか言わず、すぐホステスを触りたがって、「手相を観てやる」と「肩を揉んでやる」の二通りしか無く、実に見苦しい場面が多く、いつも私は、「触りたいんだったら、はっきり触りたいと言えばいいじゃないか」と思っていたのである。

その後或日私が家でテレビを観ていたら、そのKTがコンピューターソフトのコマーシャルか何かに、クラブの仲間達とホステス姿のまま出ているのを見て、団塊の世代の親達は一体何をしているのかと、悲しくなってしまった。 私の書いた一冊目の本を上げた、銀座のクラブの娘のRの事も、テレビで彼女がパリの街角でムーンライト・セレナーデか何かを口ずさみながら、四駆の車を運転しているコマーシャルを観ると非常に懐かしいのだが、別の番組に出て、彼氏とラブ・ホテルにサングラスを掛けて入った話か何かをされると、わざと親に嫌がらせしているんじゃないかと感じたりして、私は、「しょうがねえ奴らだな」と思わざるを得ないのである。

私は歌舞伎町で飲んでいた頃から自滅的になり、「自分は破産しなければ、真の幸せは掴めない」と信じる様になって、その頃会ったMAという二十歳そこそこのフィリピーナが、自分の誕生日にシャネルの時計が欲しいと言えば、買ってやり、それもMAが歌舞伎町のディスカウント・ショップで十四万円で出ていると幾ら言おうが、贅沢品を安く買う位なら、安い時計で十分だと言って彼女を近くの伊勢丹に連れて行き、わざわざ正価の二十五万円でその文字盤に数字の無い時計を買い与え、カードに「時計より時間の方が余程大切である」とメッセージを書いて渡し、次の時MAに会った時に彼女が時間に遅れて来たので、「お前は俺のメッセージを読まなかったのか、俺が何の為にわざわざ高い値段の、文字盤に数字も無い時計を高く買ったのか、少しはケツばかり使ってないで、頭を使え」と怒鳴り付け、それでも、「一度欲しい物をたらふく食べないと真の幸せが何かが判らない」と、その無駄な努力を止めなかったのだ。 その時の私は、「人に金を出す時は、後ろを向いてその金を誰が拾って使おうが気にならなくなったら出せ」と信じ、実践していたのである。 一緒に教会に行きたいと言えば、どうせあいつらは出来ていると下衆の勘ぐりをされると判っていても、気にせずそれを実行していたのだ。 龍土町のクラブCのバイトの女の子達に対しても私は依然同じ姿勢を貫き通していた。 その頃は、私は、「自分の考えが幾ら正論でも、相手がそれを次の日から実行する事を期待するのは自分のエゴである」と頑に自分に言い聞かせ、反対給付を期待せず、「十年後に柳田があの時こんな事を言ってたな、と思い出して呉れればそれで幸せに感じなくてはいけない」と、「いつかは俺の言っている事も理解して呉れる日もあるかも知れないじゃないか」と、長いスパンで物が見られる様に一生懸命努力していた積りになっていたのである。

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