「国学」と「蘭学」


 最近毎日新聞社から出た、ウォルフレンの「なぜ日本人は日本を愛せないのか」を読んで、前作の「人間を幸福にしない日本というシステム」に引き続き尤もだと非常に共鳴を覚えた。

 小生は最近祖父の柳田國男を偲んでインターネット上にホームページを開いたばかりであるが、戦後祖父が言っていた事でさえ、誰も理解していないのに、「理論」と「論理」の区別すら判らない日本の読者にどれ程の影響を与えられるか、疑問であり、心配になった。

 折角祖父が「新国学」としての「民俗学」を提唱したにも拘わらず、ただの「郷土研究」程度にしか理解出来ない日本の知識人に失望を感じさせらてしまっていたからである。
再び我々は「蘭学」をする事になりそうな気がする。

 ウォルフレンの文章を読んでいると訳も良く出来て居り、非常に判り易い。
小生が日本人に理解されないと言うのは、もっと基本的な部分である日本人のメンタリティーの部分である。情報―敢えて知識と言わない―の豊富な日本人は間違いを見付けるのはかなり得意であり、揚げ足を取ったり、屁理屈をこねるのは得意である。
しかし、豊富な情報は互いに繋がって居らず、理解となると又別問題である。
 
 小生はこの事に最近生物学者の父親から反面教師として学んだ。と言うよりも再確認し鍔然とした、と言う方が正しいだろう。
それは、データベースに喩えれば、リレーショナルデータベースとカード型データベース程の開きがある。
冗談でこれが勲一等と二等の差だよ等と言っている場合じゃない。柳田國男を息子である勲二等の人間さえ正確に理解していないのである。
勲章は能力でなく、国に対する奉仕に対して授与されるものだと言えばそれまでだが。
 
 柳田國男は歴史及び国語の不備が日本人に島国特有の群集心理を助長していると結論し、以後教育に力を注ぐ決心をするのだが、歴史に関してはウォルフレンの指摘する通りの事を常に主張していた。
然し乍ら、国語に関してはいかんせんウォルフレン氏はオランダの方であるので、なかなか御理解頂けないのかも知れない。
日本は漢語の導入により、日本語の不足部分を補っていた訳だが、それが柳田の言う処の「常民」迄行き渡っていなかった為に、他力本願、付和雷同の特異体質を生み出してしまったという事である。
その後西洋の学問が入って来て益々混乱を深めた訳である。
 コンピューターの普及と共にオンラインという事がもてはやされる時代になったが、この国語の不備が今現在でも尾を引いていて、日本は未だにオフラインの文化なのである。
柳田の時代は、西洋の言葉で適当な日本語の訳語が無ければ、外国の言葉をそのまま片仮名で表示していた。彼等は翻訳から学ばずに直接原書から知識を吸収していたのである。
その意味からしても、柳田の時代は未だオンラインに近い状況だったのである。

 ウォルフレンの指摘する、「論理」と「理論」の違いが理解出来ない、という様な例は幾らでもあると思われる。例えば英語でintelligenceという言葉は、「知識」だけでなく、「情報」=information の意味にも使う。日本人は「知識」と「情報」の違いを良く知らない。
或は、universal も international も共に「国際」という意味があるが、後者は national を前提に成り立つ概念であり、前者を「普遍的」と訳して初めて真の「国際性」が理解出来るみたいなものである。
だから universal を「国際」だと思っている人と、international を「国際」だと思っている人間で大きな開きが生じるのである。
従って、国家をnationと捉えるか、stateと解釈するかの区別等高度過ぎるのである。

 著者が言うように、

「自国への愛を表現するにあたってのこの障害は、どうすれば取り除けるのか。それを可能にするためには、通常の思考の枠から、大きくはみ出していくことが必要である。それができるかどうかに、あなたの個人の人生を含めた、多くのことがかかっている―それを、本書を通じて、私はあなたに分かってほしい。」

小生が思うのは、この「枠を超える」事が日本人にとって最も難しい事だと感じているからである。
勿論彼は外国人であり、彼自身も前作で、

「私は幸い、この国で、多くの友人、真の友と呼べる友人に恵まれてきた。そして、彼らと無数の忌憚のない意見を交わしてきた。日本のほかの知人たちとも同様だ。しかし、会話が終わると、日本の友人も知人も、気苦労の多すぎる彼らの社会へとまた戻っていかねばならなかったが、私はその外にとどまっていられたのだ。」

と言っているように、部外者に余計な事を言われたくない気持も理解出来る。
しかし、「本当の事を言わないで慰めて呉れるだけでいい」と失恋した男みたいな事ばかり言っていられる場合でない事だけは確かである。
これは会社を辞める同僚が最後に会社の批判をぶって行く時の感じに似ている。
せめて辞める前に言って呉れたら良かったのに、本当の事を言われても会社に残る人間にはどうしようもないんだよ、という気持みたいなものである。
この「どうしようもない」「仕方がない」というのも彼の指摘のポイントである。
彼の指摘は図らずも「システム」のまずさよりむしろ、日本人の特異体質的まずさである。つまり、イデオロギー以前の問題を解決するのが先という事なのである。

 常々小生は日本人は情緒的であり、先の「論理」的というのが非常に苦手だと感じて居り、言わば右脳と左脳が分れていない―少なくとも分ける訓練がされていない―のではないかと思っているのだが、プライドだけで、攘夷を唱えるのにはもう遅すぎる嫌いがある。
何せ、柳田國男の「新国学」すら理解出来なかった知的レベルなのだから。
今回の著作は前作にもまして纏まって居り、歴史認識もこれが外国人かと思うばかりである。
 
 日本人のこの本が理解出来ない理由は著者が外国人だからではなく、日本人が「枠を超える」事が出来ないという、特異体質から来ていると小生は思っている。
願わくば彼の努力が無駄にならないよう、又パルプが無くなってしまうという時代に資源の無駄遣いにならないよう充分気を付けたいものである。


inserted by FC2 system 【HOME PAGE】