第二部

「世間」から「社会」へ

二つの流れ

「信仰」と「世間」

柳田國男の考え方の基本的な流れを要約するとこうなる。

幼少時における二つの原体験(鵯と絵馬とでも言うか)から流れ出る二つの流れ、つまり「信仰」と「世間」に対する疑問である。その後様々な人との出会いを経て、東京帝国大学に進学し、卒業後農商務省に入省、柳田家に婿養子に入る訳だが、彼はこの二つの疑問を終生持ち続けた。 貴族院書記官長、朝日新聞社論説委員の職を経た後、別々に持ち続けた疑問が沖縄で一体となり、ジュネーヴで国際連盟の統治委員をしていた時期にヨーロッパを旅行する機会を得、沖縄で一体となった彼の疑問を確信し、関東大震災の報を機に帰国し「本筋の学問の為に起つ」決心をする。 その後、研究法として「民俗学」、伝承法として「教育」の二つの方法論の提唱に力を注ぎ「民俗学研究所」を設立するに至る。

柳田國男は日本の世間を肯定的に捉えていた。群れたがる性質ですら、島国で外敵から守りあって生きる為には必要な知恵であるとさえ思っていた。 然し乍ら、近代文明の特徴である「異郷人ばかりが隣り合わせて住む」 都市の生活、或いは民主政治の為の普通選挙には矛盾してしまうと感じていたのである。

道徳により社会を律する事が難しいと考えていた柳田は、「よりどころ」 としての宗教の必要性を感じていた。彼自身は、「比較宗教学に指を染めた人々は、自分の心をさへよく見定めることが出来なくなるのです。一つの信仰に身を置く人々は、よほど再々反省をして見ないと、うっかりとこの学問には入って行けません。」と言い、「僕は特別の、ぼんやりしてるけど大変特殊な霊魂みたいなもを持ってる」 と述べているように「祖父祖母たちの信じていた通り、出来るものなら信じていたい」とあくまでも冷徹な観察者の姿勢を崩していない。

柳田が「民俗学を」通じて括り出したものは図らずも近代文明と矛盾してしまった。 そこで彼が求めたものは、「日本人らしさ」を失わない為の、日本の世間に合った、独自の「国のいしずえ」 、「よりどころ」だったのである。

彼の言いたかった事は、均質化されて行く社会に対応する為、各自歴史の流れを把握し そこに誤りがあれば正し、自分で考える能力を養う事が重要であり、その際よりどころとなる、信じるという事を常に頭に置いて、道を誤らないようにする事だったのである。 ここで言える事は、信じる事を常に頭に置いて科学する、それによって迷う事無く能力を発揮出来る様になる一人のモデルとしは彼は画期的であったという事である。

日本に欠けているのは、西洋の考え方を取り入れた際、キリスト教に限らず、何か超越したものを信じるという部分であった。近代文明は、現人神では賄い切れなかったのである。

柳田國男は、信じる事と自分で考える事により大きな力を発揮出来る事を、身を持って証明して見せた。


第二部では「世間」システムから「社会」システムに変わる過程で起きた様々な問題に焦点をあて考察を進めたい。

問題点

1.「世間」システムは危険負担を回避する為の緩衝として日本人んの心の中に今でも根強く残存してい る。
2.「世間」が社会の最小構成単位である内は、日本の真の国際化は望めない。
3.「世間」と「社会」の二重構造が「本音」と「建前」の元凶である。

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