自伝

民俗学者について

その時のT先生とのいきさつは、私がT先生から、もっと柳田國男の本を読むように言われた事から始まった。私としては、専門家でない割にはよく読んでいる方だと自負していた矢先にである。 その時正直言って自分こそ読んでいるのかと思った位、柳田國男の生前言っていた事が無視され続けていると私は思っているのである。 学会どうし、例えば「民俗学は史学ににじり寄っている」と言ってるかと思えば、民俗学者どうしでさえ、我こそは正統派柳田民俗学後継者と言わんばかりに、片や徒党を組む者もいれば、片や一匹狼を気取り、お互い中傷し合っているかと思えば大同団結をする。これが果して真の学問に対する姿勢と言えるだろうかと常日頃から考えていたのである。 それでも巷では、「柳田さんの書物を読むと、救われるようなところがある」とか、読売ジャイアンツでもあるまいに、「民俗学は二十一世紀に向けての不滅の学問である」とか、「日本は何か大切なものを失ってしまった」とか、お為ごかしの美辞麗句を並べ立てた、柳田賛歌が聞こえて来るのである。

私はは何もここで個人攻撃を試みている訳ではなく、只傷付き怒っているのである。 それは、柳田の学問が、西欧の押し付け型普遍主義に傷つき、まるで、挫けた人間が心の拠り所求め集まる駆け込み寺みたいに成り下がっているからである。 柳田は決してそんなに弱い人間ではなかった、だからこそ逃げ込み易い場所なのかも知れないが、これでは柳田の学問も逆効果ではないか。 柳田は決して、内弁慶が空威張りをしたり、負け惜しみを言ったりするのをかばう為に日本を研究していた訳じゃ無い。 柳田が括り出した日本のマイナスの側面も改善しないで「日本は元々こうである」と安心してしまう事を柳田は喜ぶ筈もない。そういう人間が学校で建て前教育をするから、学生が社会に出てから困るのではないか。 その時、正統派柳田民俗学後継者を自認するT先生が、私にに対して、「お前の疑問等どうでもよい」と暴言を吐いたことも事実であり、それも「学問は先ず疑問から」と明言してやまない柳田國男の後継者を自認している人間がである。 「眼前の生活上の疑問が右にも左にも解答できぬようなら、学問等無益なわざと言われても仕方がない」とさえ言う柳田の後継者が先の発言をする事自体筆者には信じられなかった。 それも、祖父は霊の存在をあく迄も信じ、日本人は孫に生まれ変わるとさえ信じて、霊になってからもこの世に残って丘の上からこの国の行く末を見守っていたいと、わざわざ自分の墓を川崎の公園墓地に生前に購入した位であり、その孫に対してT先生は言ったのである。

T先生も矢張り一時キリスト教に傾倒して挫折したとは、私は以前本人から聞いて知っていた。 柳田國男だってキリスト教に引かれた事だってあった。でも挫けた訳じゃない。 私だって幼児洗礼を受けたクリスチャンだが、日本のムラ社会的教会にはうんざりさせられる事が多かった。 所詮宗教なんて言うものは、乗り越える為にあるもの、これが駄目だからあっちなら大丈夫だろうなんて事は無いのである。 それだけで済ませて置けば好いものを、彼は私に対して、「君は稲穂を見た事があるか」、「もっと漁夫とか農夫とかの話を聞かなければだめだ」と時代錯誤的な事を更に付け加えたのである。 自分の故郷の近くの有明海が埋め立てられようとも、諌早湾が埋め立てられようとも、行動一つ起こさない人間がである。 「自己の郷土すら正しく解し、確実に語ることのできぬような人々に、弘く全般の人道を論議するの資格、果してありということを認め得ないゆえに、まずもって自ら知ることの要諦を詳らかにせんとするのである。」と、祖父が述べているのを知ってか知らでか。 又、その老学者は付け加えて、「古今東西、世界は戦争が繰り返し行われ、昔から全然変わっちゃいない」というような、ぬ無常論を唱えたのである。 大体日本のかつての大人たちは、ある時は「親を大切にしろ」と儒教の教えを説き、又ある時は「和をもって尊しとなし」と言ったり、またある時は「汝の隣人を愛せ」とキリスト教になったりして、実に御都合主義なのである。 これは日本が神仏習合の国と言われているからなのか。  私ははその時、「いやしくも、柳田國男の研究者と自認し、神道や国学を研究する人間が、仏教の無常論を唱えるのはおかしいのじゃないか」と、思わず切り返したのである。 その私からすれば、学者の風上にも置けない七十六歳の老人が、最後に、「君も言いたい事があるなら、自費出版でもいいから本にしなさい、そうしたら読むから」と、捨て台詞を残し、悲しそうな顔をして私の両親に「芳秋さんの言っている事は正しいんですよ」と言い残し席を蹴って立ったのはその数分後である。 それには、さすがに私の両親も唖然としたのだが、私にとってはこの二人の証人が居たので救われたとも言えるのである。

「柳田國男を継承する会」ホームページを開く

T先生との出会いもさる事ながら、確執も意味があった。 それが論文執筆の直接の原因になった位である。 この頭の固い人達を相手していても時間の無駄であり、それならそれで自分一人でも始めてみようと、ホームページに取り掛かった。 った。 私が自由が丘に店を開いていた頃、丁度インターネットが普及し始め、面白いので、自分もホームページを開こうと思い付いた事があり、結局そのホームページは翌年店を閉めてから、コンピューターを自宅に移してから開く事になってしまったのだが、私は既に一つのホームページをその時開いていて、その名称は「ルネサンス・クラブ」である。 内容も全て英文に訳し、外国の同じ主旨のホームページともリンクさせて貰ったりして、最初の内は感想のメールを貰うのが楽しみだった。 主旨は日本は、憲法の全文に「人類の普遍的原理」に基づくと謳っていながら、普遍性追求姿勢が皆無だというものである。 然し、期待外れで、日本人からのメールは一通しか来なかった。 その頃の私は、長い間に亘る親との確執に傷付き、ストイックになっていた。 その頃したためた文章も実に哲学的な物ばかりで、何処か厭世的な感じさえする。 従って、ホームページに載せた文章も皆同じ様に哲学的な感じのものばかりになってしまった。

今回は二度目なので簡単だった。 最初の内は、怒りの余り文章が過激になり、未だに未発表のページも何ページかある。 その内落ち着いて来ると、自分自身の頭の中で、何がいけないのかが整理されて来て、それが後の論文を纏める作業にすごく役に立った。 オープンして二ヶ月位して、「柳田国男の会 公式ホームページ」というのを発見して、リンクさせて貰う事にした。 これは名古屋大学の方が中心になって運営しているものだそうだ。 日本のホームページの特徴は、情報が少ない事である。 特に学者さんが開いているものは、大事な事は学会でしか発表出来ないとみえて少ないのである。 これは知的所有権の問題が日本では未だ完全に整備されていない事から来るのだとおもわれるが、非常に残念な事である。

一時は更新するのが楽しくて、毎日、日記風にその日に感じた事を書き綴った。 元々普遍主義研究のページと対比させて考えようという主旨で始めたページなので、どうしても民俗学を志向されている方達には受けが悪いだろうと思っていたが、余り批判的な物を書いた次の日は決まってアクセス数が減った。 残念なのは、どんなにアクセス数が多くてもメールを下さる人の数が少ないという事である。 内容がつまらないと言われればそれ迄だが、つまらないなら、つまらないと感想位寄せてくれても良いのにと思う時がしばしばある。

たまには、ネット・サーフィンと洒落込んでみる時もある。 先日も、サーチしていたら「遠野からのお知らせ 柳田冨美子(母)」という母のページを見つけ、息子のしている事には無関心を装い、息子の書いたものを勝手に、まるで自分の意見の様に言っている母の姿に嫌な気分がした。 自分もこうしてインターネットやってるのよとどうして一言言えないのか不思議な気がした。 沖縄タイムスの記事をサーチしていた時も、「柳田国男ゆかりサミット」の記事と一緒に 「柳田為正(父)文庫開設」という記事が載って居り、贈呈式に父の代理で出席した母が記者のインタビューに答えて「父は沖縄の事を一番気に掛けていましたから」と如何にも知った様な口調で語る母の記事をを見つけて、内心「よくもまあしゃあしゃあと」と思ったものである。 これだけ一生懸命祖父の事を真面目に研究している息子に、幾ら疎遠にしているからと言って、何も情報を流さない親がいるかと、実に嫌な気分がした。

その時始めて、サミットが宮古島であったのを知り、あの忘れもしない所謂「芳秋のご乱心」と自分達の事を棚に上げて周りに言いふらした、平成三年の事件を思い出したのである。

思えば、あの年も宮古島で「柳田国男ゆかりサミット」があり、両親が招かれ、私は、「それどころじゃないだろ」と一人反対していたからである。 と言うのは、丁度あの当時は湾岸戦争が勃発し、テレビでは毎日そのニュースばかり流れていた記憶があり、私はその時「家の中がこんなじゃ世界平和なんて無理な話だな」と思ったからでもある。 そして今度は、「コソボ紛争」である。 どうも私の正義感はアメリカ型であり、柳田家の平和は世界の平和と連動しているらしい。 日本人が、平気で普遍主義を否定するのも、欧米諸国がいつもこの調子で旨く行っていないからでもあるのだから。

論文を纏める

プライドを著しく傷付けられた私は、それなら一つ文章に纏め上げてみようじゃ無いかという気になり、これ迄機会ある毎に買いだめておいた祖父の本を片端から読んだ。 それ迄古本屋に立ち寄った際に祖父の本が並んでいると、何故か家に持ち帰らなくてはいけない様な気がして買っておいたものである。 所謂柳田学の本も年に数冊出るので、どうせ読んでも同じ事ばかり書いてあるとは思いつつ仕方が無く買った。 正直言って迷惑である。 と言うのも新刊が出ても、実家止まりで自分の所へは廻って来ないから、自分で買わなくてはいけないからである。 柳田の事を専門に書いたものよりも、むしろ河合隼雄氏だとか小林秀雄氏が御著書の中で一章柳田について頁を割かれたり、引用されたものの方が自分は興味を覚えた。 かくして家中本だらけになってしまったのである。 一度父に頼んで実家にあるのを貸して貰おうと思ったが、抜いた分は紙に何を持ち出したか書いて挟んでおけとかうるさいので、結局自分で買う事にしたのである。 文庫版も母が遠野に大部分持って行ってしまったそうである。 そう言う時の父はいつもうらめしそうな声を出した。

読み始めてみると、大事な事は集中して数冊に書かれている事が判って来た。 専門分野のものはどうしても興味の対象外においてしまうが、柳田國男独特のの流儀と言うか癖があって、節や章の始めと終わりに自分の本当に言いたい事が書かれているのを発見したのである。祖父の言葉を借りて言えば「実験」である。 大事な部分をマーカーでなぞって行くと、ある項目はマーカーの色で埋まってしまう事も多い。 興味を引かれるのはどうしても、学会で所謂「ジュネーヴ以降」と言われている物に集中する。 それも、各論部分ではなくて、柳田が各論から括り出した柳田自身の考え方である。 如何せん、私の興味は「東京オリンピック以降」なのだから。 私はどうしても民俗学者にはなれないとその時感じた。

論文を一通り纏め上げ、ホームページに載せた分と一纏めにしてみるとかなり様になったので、実家に持って行って両親に見せたが、二人とも実に無関心で、この二人は何を考えているのかと思い、ひょっとして自分には國男の血は入っていないのではないかと疑った位である。 父の言った事と言えば、「変な事を書くと、学会から潰されるぞ」という事だけだった。 父は國男のオーソリティーは自分だと、密かに思っているところがあるのだが、その割になかなか話して呉れようとはしない、実に変った親である。 これで私は一通り、祖父のしていた学問の基本部分を掴んだ気がした。 祖父の好んで使用した、「史心」、「実験」、「重出立証法」の意味、所謂二つのミンゾクガクに如何に悩まされたか、自分の提唱した「民俗学」を科学として認めさせようとする努力がよく解った。

一度出版を考える

その年に一度、今迄したためたものを本にしてみたいと思った事がある。 丁度その頃知り合った、雑誌の編集者に、最初に書いた小冊子と、その三年後に纏めたルネサンスから始まる、日本の特異体質を纏めたものと、今回の「柳田学」を纏めたものを、束にして見せた事がある。  今から思えば乱暴なやり方だったと思うが、祖父の研究をしてみて、正確に後世に伝えるのは今しか無いという焦りの気持が強く出ていた時期であり、素人の私には正しい方法も知らないし、編集者に一度相談してみたいという気持が強かったのである。  その編集者がたまたま私の高校、大学の後輩だったにも拘わらず、受入れて貰えなかった。当然の事である、世の中そんな甘いものじゃ無いのであり、私が甘かったのである。

親を見切る

その後決定的に私を吹っ切らせる事件があり、一念執筆も中断していたが、不況で自分達で経営している会社も鳴かず飛ばずである事を良い事に、再度挑戦してみる事にしたのである。 その事件とは、母が私にマンションを買う様に勧め、物件も決め、頭金も支払い、あと一月で完成引き渡しという時に、こちらのビジネスは活性化しない、従って期待していた金も入らない、残金は実家で持つと言う甘言に乗せられた自分が馬鹿だったのだが、自分は頭金を持ったのだし、家族もいないので、名義は誰の物でも関係無い、持ち分が少なくなるだけだ、拠ん所なくなったら貸せば良い、投資物件としては、下手に現金で持っているより利回りが良い等と軽く考えていたのが大間違いだったのである。

購入を決めた少し前に、家族会議を開き遺言状も家族で各々の相続分を確認した後の事で、以前不動産業をかじった事のある私は、自分の持ち分の土地も少ししか無い事だし、この地価の下がり様じゃ何も残らないと早々と判断していた自分は、連帯保証人になっている兄が気の毒に思い、その時は盲判を押したのだが、前の事件の時海外赴任していて、いきさつを良く知らないで、疎遠になってしまっていた、長兄の逆鱗にふれ、支払い期限ぎりぎりに母が逃走するという事件が勃発したのである。

前の事件以来その時迄は私は悪者にされていて、その家族会議は何十年ぶりに皆が一同に集まったという感じだったのであるが、そんな事も忘れ、それに気を良くした母が末っ子に接近して来たのにも気付かず乗ってしまった自分が馬鹿で悔やまれるのである。 逃げる前に、母は実家に同居している兄嫁にも「芳秋が何をするかも知れないから、家には鍵を掛けておけ、乱暴したら警察を呼ぶように」と言い残したからたまらない、期限が次の日に迫ってしまい、担当者に電話しても、 「一度お電話を頂きましたが、外出していたものですからお話し出来なくて」 「その後御実家にお電話差し上げたのですが、どなたもお出にならなくて」、と打つ手が無いという感じだった。 方々電話してみたが埒が開かず、途方に暮れている処、司法書士にアポイントメントをとったというところ迄は調べが付いたがその後が判らない、結局は諦めて、預けてあった契約書を取りに雨の中を実家に行くと、ドアと言うドアに鍵が掛かっていて、中に親父と兄嫁がいるのは見える、二人とも眼があっても困った顔をするだけで開けて呉れない。 これが、母が仕組んだ罠だったとその時知っていたら、雨さえ降っていなかったらと今だから思うが、後悔先に立たずである。 私はまんまとその罠に掛かってしまい、そこにあった石で縁側の通用口の硝子を割っていたのである。 幸い警察は呼ばれなくて、事無きを得たが、手に怪我を負ってしまった。

その後すったもんだしたが、違約金を払い、損失分は兄が実家から補填する様に取り計らって呉れたので助かったが、一時は又悪者にされるかと思って悩んだものである。 子供というものは、どんなに悪い母親でも必ず信じようとするものである。 私の母の様に、各々の子供に違う事を言い、子供がお互いに猜疑心を持合う間隙を縫って、漁夫の利を得るタイプは少ないのだと思うが、お陰でそれ以来長兄とは仲良く付き合わせて貰っている。 その頃、テレビ・コマーシャルに、「MOTHER、Mを取ったらOTHER、他人です」というのがあって、私はそれを聞く度に、このMは、MORALのMだと思ったものである。 男三人共がサラリーマンだと、一人が日本にいればもう一人は海外という感じで、皆が一同に顔を合わせるなんて機会は滅多に無い事なのであり、若い頃はお互いの競争心もあるし、それぞれ結婚して配偶者が出来ると利害もかち合うので、なんせ戦争を挟んだ年子が二組いる訳だから、お互いの立場を理解し合おうと思う方が間違っているとも言える位であり、そんな心の隙間を母に利用されてしまったと言う感じである。

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