史心・内省・実験

柳田國男の主張し続けた史心、内省、実験は過去、現在、未来に各々が対応し、その大きなうねりの中に昨日、今日、明日という小さな流れが繰り返されている それは、日常の小さな営みが繰り返される事が世界の大きな流れをつくり出して行くというダイナミズムである。 彼のこの思考サイクルが理解出来なければ、彼の壮大な考え方は到底理解出来ない。

國男の考え方の基本
昨日今日明日
史心内省実験
過去現在未来

これは、自分の昨日、今日、明日を考えずして、世界の過去、現在、未来を語る事は出来ないという事である。

柳田國男が日本民俗学研究所を解散し、「日本民俗学の頽廃を悲しむ」という講演をしてから久しい。 その後日本は経済的に目覚ましい発展を遂げ様々な問題を内包しつつやがて21世紀を迎えようとしている。

日本の源流を探る柳田の旅のモチベーションが、西欧諸国の歴史をも客観視し、故国日本もいつの日か世界の歴史の中に埋没してしまう事を早くに予見し、痕跡が失われる前に資料を収集し共通項で括り出す事にあり、謂わば日本の常識から日本の良識迄をも探ろうとした努力は並大抵のものではない。 彼は日本人の頭の中で絡み合った一本の糸をほぐし、日本人というものが生まれ世界の流れに合流するに至る迄の課程を明確にしようとしたのである。

現在の所謂「民俗学」の流れは、近代文明に合流している時代の流れに逆行している様にも映る。 柳田が好んで使用した「史心」というものは、現代を把握して初めて言える言葉であって、ノスタルジーやアナクロニズムとは訳が違うのである。 口では「史心を養う」と言いながら今だに出発点が現代でない、つまり自分自身でない、出発点が柳田國男からではこの「日本とは何か」という複雑な方程式は解けない。 日本を研究している筈の人間が、自分の時代を度外視するという最大の過ちを犯し、まるで全て蚊帳の外である。 社会が尤もらしく存在しているものをそのまま信じて何の疑問も持たなければ、学問する意味も無い、只、事の経過を記録しておくだけで良い。 何かを解き明かそうとするエネルギーがいつの間にか柳田國男自身の謎解きにすり替えられてしまっている。 研究者の内に何等現在の日本に対する疑問がみられない事、つまり内から湧いて来るエネルギーが感じられないのである。

これは現代に生きる日本人が知らず知らず輸入の論理でものを考え、気が付いた時は社会が何か違う原動力によって動いている事を知りアイデンティティークライシスを引き起こす、「民俗学」とは、この日本人の心の根底にある原動力とは一体何なのか、叉近代文明を生き抜く為には違う新しい原動力が必要なのかを探り出す試みなのである。

「民俗学」という狭められた学問の枠内では、柳田國男の考えていた日本の源流は突き止められないのかも知れないが、彼はその課程で多大な資料を遺した。 しかしながら、細かな作業或いはカテゴリーに知らずに閉じ込められ、目的意識がいつの間にか薄れてしまった様な気がする。 これは何も「民俗学」だけの世界に留まらないが、益々細分化された学問の世界は、柳田が「青年と学問」の中でいみじくも言っていた「綜合なき学術」のまま現在に至っている。 ここで今一度原点に戻り柳田國男が「民俗学」を通して何を括り出したっかった再確認し目的に向かって進みたいものである。 アカデミズムにあくまでも対抗した柳田が提唱した学問の研究であるにも拘わらず、アカデミズムに縛られている、これを人は「ミイラ採りがミイラになっている」というのではないか。

柳田國男の学問は、千年もの間日本人の心の中にあり続けた「惟神の道」を再び心の中に蘇らせる日本人の心そのもなのかも知れない。 願わくば「21世紀に向けて」とか「開かれたナショナリズム」とかが只の陳腐なスローガンに成り下がらない事を只々祈るばかりである。


There is a real danger lest anthropology on the social side be too bookish.

R.R.Marett
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