柳田國男を学ぶのか柳田國男に学ぶのか

國男に学ぶ為には、先ず國男を学ぶ必要がある。 彼を知る為には、彼のメンタリティーを知らなければならない。 彼の「知」の「技法」を学び、方法論を学び、初めて彼を学ぶ事が出来る。彼に学ぶのはそれからである。

柳田國男は、日本の激動の時期に生まれ、開化の時代を生きた人間であり、日本が近代文明に合流する様を肌で感じていた人間である。 彼は、幼少の頃より持っていた、「信仰」と「世間」に対する疑問を終生持ち続けた。この二つの疑問が後に「民俗学」の確立に繋がるのである。

彼は、神道は、キリスト教以前の世界の信仰であると信じ、ヨーロッパの復興期つまりルネサンスに焦点を当て、日本を深く掘り下げ始めた。 ルネサンス期は「文芸復興期」と呼ばれ、丁度、東ローマ帝国の滅亡と共に東の学芸が西に流れ込んだ時期である。 その時期の哲学は、神学と哲学のシンクレティズムである、ネオ・プラトニズムであり、これが科学の発達を促し、近代文明の源となっているのである。

柳田の学問の特徴は、ヨーロッパ=キリスト教と短絡的に結びつけない処にある。 彼は、学問は疑問から生ずると言い、又、歴史は遡るものであると言って、疑問を掘り下げる為には、歴史をどこ迄も遡った。 彼の遡った時期が前述のヨーロッパ・ルネサンス期であり、未だ信仰も学問も原初の姿を残している時期である。彼の学問が如何なる尺度にもとらわれない理由はここにある。

彼は、近代文明の流れを肌で感じ、日本人らしさを失わない為に、日本の習俗を均質化という近代文明の流れに埋没する前に日本のアイデンティティーを確立しようとした。彼はこのように、ヨーロッパ文明の深みを熟知して日本を掘り下げたのであり、彼のしていた事は、言わば、教義の無い日本の神道の為のバイブル作りとも言えるのである。

彼を知る為には、如何なる尺度にもとらわれない、彼のメンタリティーを学び、ヨーロッパ文明の深みを学ぶ事から始めなければならない。 それが近代文明に押し流されている現在の日本を知る第一歩なのである。 柳田國男に学ぶ事は、國男を語る事ではない。又、ルネサンスから学ぶという事も同じく、ルネサンスを語る事ではない。

真・善・美について

柳田國男は、真はインターナショナルであり、善及び美はナショナルである事を主張しました。

然し乍ら、彼は同時にそこで自己矛盾を引き起してしまったとも言えます。

つまり、彼の常に批判した、輸入物の学問はインターナショナルではあっても、ユニバーサルでは無いのであり、真はユニバーサルでなくてはならないからです。

私が日本は真善美(学問)が衣食住(生活)に反映されていないと言い続ける根拠はここにあるのです、日本は明治維新後外国から学問を輸入し、真善美を三角形でなく一直線上に位置付けてしまいました。本来真は善と美を統括する規範であるべきなのです。

  1. 貴方の思考回路を美・善・真から真・善・美の序列に切り替える事。
  2. 昨日・今日・明日のサイクルを史心・内省・実験というより積極的なサイクルに切り替える事。

貴方がこの二つをクリアー出来なければ、柳田國男を正確に理解する事は出来ない

「この自然にしてまた普通なる眼前の生活上の疑問が、右にも左にも解答ができぬようなら、人間の智慧もいらぬもの、学問とても無益なわざと言われても是非がない。」
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