個人の自由

元々日本は島国で幸いな事に外国からの侵略を免れ、温帯という立地も幸いしてか小さい社会の儘自己完結型の国家を形成して来た。

戦後「個人の自由」という言葉が流行ったが、隣組制度とか村八分の言葉でも判る様に、日本には元々「個人」の「自由」が育つ土壌は無かった。 今では当然の様に受け止められている「個人の自由」は日本というムラ社会、所謂「世間」の住民には一番苦手な耳慣れない言葉だったのである。

この「個人」とか「自由」とか一番苦手なものに対する認識が薄い儘50年以上過ぎてしまった結果、見掛けだけは欧米の社会と何ら変わりの無い社会は従来のムラ社会の儘膨張し、欧米流の教育を受けた若者は「個人の自由を」信じて社会に出、その結果学校で習った事と社会のミスマッチに気付くのである。 又気付かない人間は所謂モラトリアムとかアイデンティティークライシスとかに陥り、起るべくして起る現象を自分固有のものとして悩むのである。

今後益々ノーバウンダリー化する世界で通用する人間になる為には、現在の輸入の社会システムを採り続ける限り、「個人の自由」という50年そこそこでここ迄広まった言葉の本質を深く考える必要がある。 今ここで独自のメソッドを考えないと、社会と人間のミスマッチは大きくなる一方である。

【第二部】 【個人の自由から自由な個人へ】 【HOME PAGE】 inserted by FC2 system