自伝

麹町

丁度五十歳になった時私は麹町に在る或高校時代の先輩の会社を手伝っていた。 その会社も決して旨く行って居る分けじゃ無かった。 その会社はミュージカルの企画会社であり、私の先輩にあたるNS氏が興し、負債が増えてしまい、或投資顧問の社長が別部門として引き継いだ形になっていた。 NS氏はかつての大スターSKの舞台監督をずっとされてた方でその方面では有名だったらしく、若手の舞台監督を集めてギルド風な組織を当初は考えて会社を興したらしいが、各舞台監督の実力の差で旨く機能しなくなったとも聞いた。 投資顧問の会社を紹介したのは証券会社からひょんな切っ掛けで芸能プロダクションを起こし、かつてのアイドルドュオPLを育てた人物で、NY氏という方である。 今回のお話はそのNY氏が再度ご自分の事業として引き継がれようとして始まったという事であった。 私がNS氏にお会いしたのは、龍土町のクラブで会ったあのOH氏が紹介して呉れた、小料理屋でたまたまそこの女将に紹介されたのである。 OH氏の事務所もそこから程近い場所にあり、そこの女将が以前近くで貿易会社に勤務していた時その会社のバーゲンセールでよく着る物を買っていたとの事だった。

その時迄私は彼に会った事も聞いた事もなく、高校の先輩という事も知る由も無かった。 最初にお話させて頂いた時にNS氏が、「僕は麻布の演劇部だった」という話をされ、初めて彼が高校の先輩だという事が判ったのである。 その時私が、「演劇部って言ったら、悪ばかりじゃないですか、私は部室があった自転車置き場の方は恐くて近寄りもしませんでしたよ」と言ったものだから、始めからすっかり打ち解けてしまった。 先輩だという事で話も弾み、お手伝いさせて頂く事にした。 その時多少心配だった私は、大学時代に一緒に留年した友人が広告会社を辞めてからニューヨークに行き、帰国してから同じ様なプロモーションも手掛けていた事を思い出して、相談してみると、意外にもそのTYという私の同級生とNS先輩は知り合いで、一時はもう一人の舞台監督と三人で六本木を飲み歩いていた事も判った。 その時は二人の事務所が両方とも六本木にあって、頻繁に行き来があったらしかった。 悪い事にその時私はTYから、NS先輩の最初の会社が増資した時に、YTも出資してその五十万が今度の会社に変った時にうやむやになってしまって、友達の一人としてはあんな博打みたいな仕事は柳田には勧められない、と言われてしまっただ。 それでも私はその時仕事がしたかったので、彼の忠告に従わず引き受けてしまったのである。

その後暫くしてからNY氏にも会いする事が出来た。 NY氏の発案で、私の最初の仕事は理念作りに決まった。私の得意部門である。 私は以前、会社勤めをしていた頃、企業理念がしっかりしていない会社が多過ぎると思っていて、自分が会社を興すなら、「東急リネンサプライ」にかけて、「東京理念サプライ」という名称にしようか等と冗談で言っていた位、理念から構築する企画書作りがどういう訳か好きだったのである。 東急百貨店に居た時も、不動産会社で企画を担当していた時も、かつて大学を企画した時もそうだったが、私は何か始める時は必ず本屋に行き関連する本をしこたま仕入れ読みまくるのを常にしていたので、その時も、文化経済学、芸術経営学だとかアートマネージメント関係の本を買い漁り読みまくり、急いで一つの企画書を纏め上げた。 その後会議が開かれ、社員全員を前にNY氏が私を紹介し、私も企画内容を発表した。 その頃は未だNY氏も、一億円を自分で集めて会社を引き継いで自分の人生の仕事にすると張り切っていた。

少しして大枠の内容が把握出来たので、私は営業を担当する事になった。 その頃早急にスポンサーを探さなくてはいけない、ミュージカルの企画が二つあったので、それ迄営業をしていたNT君という若い担当者と早速作業に取り掛かった。 始めの一週間は知り合いを頼りに色々打診してみたが、友人知人は皆不況化で自分の頭の蠅を追うので精一杯で、私の面倒を看てくれる余裕すら無く作業は一向に捗らなかった。 高校時代の先輩にも電話してみたりもした。 或先輩等には、「お前、Nの所に居るのか、NってNSの事だろ、あいつは悪でよく虐められたよ」、「こんな景気の悪い時に、芸術に金を出す奴が何処に居る」と説教をされてしまった事もあった。 NY氏も御自分の知人等に依頼されて企業のトップを紹介して貰い、会社に訪問し私も同行したりしていたが、後が続かなかった。 次の週から私は戦法を変えて、他人に頼らず飛び込みで営業する事に決め、タウンページのページをめくってめぼしい会社をピックアップして次々に電話し、企画書を送る許可を貰い、郵送させて貰ったり、ファックスで概要を送らせて貰ったりしてみたが、中々決まらなかった。 少しして、営業のNT君の父親の病状が悪化したと言ってNT君も顔を出さなくなってしまった。 その間にも期限はどんどん迫り、製作関係は止める訳にも行かず進んでいった。

刻々と迫る期限の中での営業は実に焦らされた。 ある時等は、以前英国系の会社に居た時の同僚が、今は米国の衣料品会社のマネージャーになっているという情報を聞き付けたので、その人間に電話してみると、「うちのアメリカ人の社長は部類のミュージカル好きだよ、でも俺が教えた事は言わないでな」と言ってくれたので、期待して企画書を送付してみたが結局は断られてしまったりもした。 日本の支社が埒が開かないので、ニューヨークにある本社に電話して企画書をファックスで送らせて貰った事もあった。 その時、私が交渉していたフランスの自動車会社に、名義主催のテレビ会社の人間が問合せを入れ、私が辞めた後になってから、その会社が興味を示して来たと聞いた時は、さすがに悔しかった。 NH先輩の演劇部時代の先輩が、別のフランス系の自動車会社に居ると聞けば、会社に直接電話を掛けて、電話に出た女性社員に不審がられ必死に事情を説明して、部署と肩書きを聞き出し会いに行った事もあった。

一億円を集めると最初息巻いていたNY氏も金が集められず、社長からその事で散々責められ、プライドが傷付けられたと言って、会社に顔を出さなくなってしまった。 私の方も、隣の部署で、国際電話カードの販売を手掛けていた人間に、「会社は仲良しクラブじゃない」と中傷され、会社に出られなくなってしまい、荷物を纏めて引き上げてしまった。 給料も貰わずに誰よりも早く会社に出て来る人間に、「仲良しクラブ」はないだろうとその時そいつをぶん殴ってやろうかとも思った。 その会社は始業が十一時で、私は手伝い始めてから辞める迄、そんな時間に営業を始めても相手の担当者は居ないに決まっていると思い続けていた。 その内に名義主催の或テレビ会社に対する支払い期限が来てしまい、その前日にNH先輩が、私の自宅に電話をして来て、「俺を信用して、五百万出して呉れないか」と言って来た時は、私の中では既に、スポンサー無しでは危険過ぎるという考え方が固まっていたのと、私が出入り出来ない会社に何で私が出資しなくてはいけないんだと感じた事が相まって、その事を伝え丁重にお断りした。

結局その一本のミュージカルの名義料が支払えず、先方の担当部長が怒ってもう一方の企画からも手を引いてしまったので、後からの一本は公演が中止されてしまった結果に終わった。 その引き金となってしまったミュージカルも、社長が中止にすると仕事が無くなってしまうからと、テレビ局も降りてしまったにも拘わらず強行したので、私は当日先輩からも、担当の女性からも電話も貰って居たにも拘わらず、恐ろしくて顔を出す事も出来なかったのである。 後になってから、そのTという小料理屋に先輩が来て、「柳田は顔も出さないで女々しい奴だ」と言っていたという事を耳にして悲しくなってしまった。

或晩私達はいつもの様に向いのTで食事をしていた、そこにテレビ局の方が二人顔を出した、一人の方はいつもお目に掛かっていて、その会社にも深く関係しているNという方だったが、もう一人の方が良く思い出せなかったので、私は一応、「初めまして、柳田です」と挨拶をしておいた。 するとその方が、「私は一度会った事がある」と言ったので、おぼろげながら、「ああ、そう言えば、ミュージカルの稽古を見せて貰った時に紹介されたかな」と思い出した。 それから暫くNH先輩とその方達二人と話をされていて、突然先輩が私に、唐突に小さな声で、「お前会社に五百万出資する気はないか」と耳打したので、「有りません」とはっきりと答えると、「特別優先権付き株主という意味でだよ」と続けたので、私は、「投資する魅力の無い会社に投資する気も余裕も一切ありません」と言ってしまった。 その会社が幾ら頑張っても、この経営姿勢では上場してストックオプションを期待出来る等と、私には想像すらも出来なかったのである。 その後も、話題が営業の事になって、私が、「もう少し早く動き始めてればね」と言った時、先輩が私の営業について、「あそこ迄だったら誰にでも出来る」と言ったので、私もその先輩の言葉にはすごく心外で、「早く動き始めていれば旨く行ったのもあったかも知れないじゃないですか」と、具体的な会社名を挙げて反論したのだが、虚しくなり、「ああ、矢張り人の求めているのは私の知識じゃなくて、金なんだ」と、すっかり嫌になってしまったのである。

その時、その後から二人でいらしたUという方が、多分NH先輩が、私が柳田國男の孫だとか何とか彼に私を紹介した時かいつか、話したのだと思うが、「お前から柳田國男の権威を取ったら何も残らないじゃないかと」と、突然言って絡んで来たのである。 私はムカっと来て、「私は、柳田國男の権威があった事すら知らない、貴方だって、テレビ局の名前を取ったら只の助平なオジサンじゃないですか」と、それ迄後から合流した女の子に下品な冗談ばかり言っていたU氏にほとほとうんざりしていた私は言ってしまったのである。 私はその時余程、「私は好きで柳田國男の孫になった訳じゃ無いけど、貴方は好きでテレビ局に勤めたんでしょ、そんなに嫌だったら辞めればいいじゃないか」と言ってやりたかったのだが、じっとこらえた。 私は女房と旨く行かなかった時は離婚し、会社で旨く行かなかった時は辞職し、「嫌だったらやめる」と言うのを今迄原則にして来たので、酒の席で女房の愚痴だとか会社の愚痴ばかりこぼす奴が大嫌いなのだ。 帰り掛けにもU氏は、私がその同席していた女の子に、「大丈夫か」と声を掛けると、たまたま自分も一緒の方向だったもので勘違いして、「俺が何かするとでも言うのかよ」と言って来たので、「そんな次元の低い事で、大丈夫かと言ったと言ったんじゃない」と殴ってやりたい気持になった。

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