国籍離脱の勧め

リベラル再考

2017年7月 1日 (土)

国籍離脱の勧め

「前川さんの会見を見て、個人の尊厳、国民主権という言葉から個の確立の重要性或いは規制に必ずしも反対ではないという言葉からは哲学的にリベラルであり政治的に保守と革新に分かれるという基本理念迄共有出来た事は俺にとって実に意義深いものがあった。」

<>と以前書いたが、

前川氏の会見ではっきりした事は彼が憲法に忠実であり、基本的にリベラルで保守と革新に分かれる建前論だという事だ。 ところが多くの日本人は普遍主義詰まりリベラルを拒絶しているのが本音なのだ。

リベサヨが建前論で攻めればネットウヨは本音で応戦する、これは建前と本音の戦いなのである。 然し残念ながら日本にリベラルの生まれる土壌はなくあくまでも建前論なのである、又ネットウヨが頑なに拘る日本は時代逆行であり近代文明を拒絶するものでお互い相容れない。

今迄は西欧化をよしとしていたので普遍主義礼賛の風潮があった、憲法前文にも人類普遍の原理と謳われていたからなのだがここに来てそれがガタガタと崩れ始めたのだ。

遂に日本人の本音が本性を現した感じである。 日本人が建前と本音を使い分ける限り日本人に文明化は望めず、和魂洋才の捻れは続くのだ。 一つ言える事は日本人は個も論も欠如するので普遍主義、その基本である自他の哲学ひいてはリベラルを導き出せないのだ、従って哲学的にリベラルを前提に保守と革新が機能する土壌も生まれないという事だ。

これが俺が国籍離脱を決意した理由だが、こんな環境に身を置いたらおかしくならない方がおかしいのだ。

何度も書いたが、西洋人は一時的に心と身体を話して科学、ひいては近代文明を発展させたが、逆に日本人は近代文明により無理矢理に心と身体を引き裂かれ一億総分裂症になった。

「和魂洋才とは外面と内面を使い分けるということである。これこそまさに精神分裂病質者が試みることである。あるいはこう言った方がよければ、ある危機的状況にあって、外面と内面との使いわけというこの防衛機制を用いることが、精神の分裂をもたらすのである。」 かの岸田秀氏も『ものぐさ精神分析学』で書いているではないか。

悪い事は言わない、狂いたくなければ日本を去る事だ。

2017年6月24日 (土)

前川さんの会見に想う

下記は最近の自分にツイを並べたものである。

前川さんの理路整然とした会見清々しかったよね、仏法を極めた顔付、彼が後輩に贈った言葉、個人の尊厳、国民主権、官僚も政治家も家に帰れば一個人、一国民と俺が言う所以だ。

彼は必ずしも規制に反対ではない、これが俺がいつも言うところの哲学的にリベラルでその下に保守と革新があると言う事だ。

前川さんは思想的に何かあるなとは思ったが仏法だったとは、面従腹背が座右の銘という事も理解出来る、個人の尊厳、国民主権もそこから来る。

個が無に対峙するナチュラリズム、片や個が全に対峙するヒューマニズム、無と全の間を行ったり来たりするホーリズム(トータリタリアンではない)の日本人。

前川さんの会見を見て、個人の尊厳、国民主権という言葉から個の確立の重要性或いは規制に必ずしも反対ではないという言葉からは哲学的にリベラルであり政治的に保守と革新に分かれるという基本理念迄共有出来た事は俺にとって実に意義深いものがあった。

俺はオーストラリアに帰化する事で和魂洋才の捻れから逃れ洋魂洋才の環境で哲学的にもリベラル政治的にもリベラルを標榜出来る様になったと言ってるが、田原総一郎でさえ自由主義国は哲学的にリベラルでその下に政治的に保守かリベラルがあるって理解してないから日本人には無理な話なのかも知れない。

田原総一郎が高校生に他の国は保守とリベラルの二大政党制なのに、日本は両方ともリベラルだから対案が出せないとか説教垂れてたが、彼は以前も明治維新で西欧では一神教だから現人神にしたとか曖昧にぼかしてたけど、西欧は普遍主義つまり政治的にリベラルの元に保守と革新があると何故言わないのだ。

俺が25年日本の特異体質を追求して出た結論が国籍離脱だったという事を日本人はもっと深く考えた方が良いよ、和魂洋才の捻れは衆参の捻れなんて簡単なもんじゃない、政治的にリベラルを唱えるには哲学的にもリベラルにならなきゃ駄目よ、アメリカは哲学的にリベラルでその下に保守とリベラルが来る。

俺は暇な事を良い事に毎日朝から晩まで如何にしたら日本は救われるか考えているが、今の所望みはない、第一に救いは個人に来るもので集団には来ない、早く個の確立が出来るようになって欲しいものだ、神が居ないから個の確立が出来ないのではなく、個の確立が出来ないから神が居ないのだ。

俺は皆様の様に自慢できるものは女房以外に何もないですが、皆様の様に毎日が他人を腐し足を引っ張り会って生きないで済むだけ余程幸せだと思っています、これからも洋魂洋才の社会オーストラリアでひっそりと死ぬ迄生きたいと思います。

2017年7月 4日 (火)

西洋人の神とは

(´・ω・`)「道徳的で理性的なイデオロギーへの欲求は西欧文化の一部となっている。かたや日本は理性や普遍的な道徳律よりも人間の感情や人間関係のヒエラルキーをはるかに重視している。」

昨日金ビス先生の引用ツイについ 「それを聖俗未分離の前近代社会詰まり未開の土人と呼ぶって書いてないですか?」 と反応してしまったら、 (´・ω・`)「日本には社会の外に、あるいは上にいて私たたち全てを見守っている唯一神は存在しない。その代わりに、特定の社会的情況にふさわしい行動規則や礼儀作法の複雑なシステムが機能しているのである。」 と続いた。 それに今度は、 「未開だから普遍主義の基本の自他の哲学さえ括り出せないから絶対主が居ないだけで、西欧にだって外側には神なんかは居ないでしょ、神は人間の内側に居るんだから。」 とコメツイしたら、 オランダ生まれのこの御仁に言うてくだされ⇒Ian Buruma「日本のサブカルチャー→大衆文化のヒーロー像 」 と言われてしまった。

ウォルフレンの二番煎じかと思いきや、 「もう古参かと。ジャパンスタディ界隈じゃ定番のおひとり。ライデン大学出てテラヤマの欧州公演きっかけにポンニチサブカルに興味持って、という経歴。写真撮ったり映画批評やったりあれこれやっとらすんですが、もともとジャーナリスト系ですね。」

らしい。 その後の俺のツイ、 "日本の神に関する外国人の記述を見る度に思うが彼らも如何にして神が創造されたか迄は理解してないみたいで歯痒い、何とか日本人自らの手で普遍主義を括り出して欲しいものだ。"

"未だに外人の書いた事が恰も事実かの如く流布するって日本人は恥ずかしくないのかね、結局客観の客観視なんて猿でも出来る事を鵜呑みにしてるって事だぜ。"

"でも西洋人なんて呑気でいいよな、自分らの神が外に居るなんて平然と言えるんだから。" "日本人は自分らが未開の土人だと言うことを必死で否定するが、本音と建前を離れたままに看過してる限り文明化は望めないと気が付かない、本音は言わば主観建前は客観であり、主観を相対化して限りなく客観に近付けると言うのが自他の哲学普遍主義の基本中の基本だから。"

"でも何で日本人は一足飛びに天の神様にすがりたがるのか不思議だよね、何故自分で神様を見つけようとしないんだ、それも皆カルトばかりだぜ、そんな自分らが恥ずかしくないのか、恥さらしの文化か?"

"この倫理規範の欠如する日本で皆何を期待してるのか俺にはさっぱり理解出来ないんだよな、毎日ここに出て来てああでもないこうでもないって建前論並べ立ててりゃこの癒着談合隠蔽の「理屈じゃない」社会から脱却出来るとでも思ってるのかね出来る訳ないだろうが、胸に手を当てて内なる神に聴いてみな。" 結論として言える事は西洋人も大部分は他人の創り出した神にすがっている事だよ、だから日本人も普遍主義を拒絶するだけじゃなく、自らの手で普遍主義を括り出さない限りいつ迄経っても前近代社会、未開の中世ガラパゴスジャップランドの土人のままなんだよ。

2017年7月 8日 (土)

リベラル再考

今迄和魂洋才の捻れにばかり焦点を当てていたが、現在の日本は敗戦により実質上は和魂洋才から洋魂洋才の状態になっていたとも言える。 それもその筈、戦後は柳田國男の監修した社会科の教科書は検定落ちしGHQ主導のソシアルスタディーズになったのだから。 以前も書いたが戦前のらくろ上等兵を読んでいた軍国少年は戦後は鉄腕アトムを読みこぞって科学少年になったのだ。

前回も書いたが、

「今迄は西欧化をよしとしていたので普遍主義礼賛の風潮があった、憲法前文にも人類普遍の原理と謳われていたからなのだがここに来てそれがガタガタと崩れ始めたのだ。

遂に日本人の本音が本性を現した感じである。」

近代文明が普遍主義で構築されていて、それに基づいて憲法も普遍主義で構築されている、日本人の今やろうとしている事はそれを根こそぎ否定する事である。

本来哲学的に普遍主義、詰まりリベラルを前提に保守と革新に分かれるべきところ日本人は何故か革新をリベラルと呼び哲学的なリベラルと混同しているだけでなく、一部マイノリティーが普遍主義を逆手に取って責めてる事も事実ではあるが、リベサヨとして排斥しているのだ。 後は前回も書いたとおりである、

「リベサヨが建前論で攻めればネットウヨは本音で応戦する、これは建前と本音の戦いなのである。」 「然し残念ながら日本にリベラルの生まれる土壌はなくあくまでも建前論なのである、又ネットウヨが頑なに拘る日本は時代逆行であり近代文明を拒絶するものでお互い相容れない。」

「日本人が建前と本音を使い分ける限り日本人に文明化は望めず、和魂洋才の捻れは続くのだ。」 「一つ言える事は日本人は個も論も欠如するので普遍主義、その基本である自他の哲学ひいてはリベラルを導き出せないのだ、従って哲学的にリベラルを前提に保守と革新が機能する土壌も生まれないという事だ。」

「そもそも日本には哲学が欠如しているので、経済的な観点でしかものを見る事が出来ないので、哲学的にリベラルで政治的にもリベラルであるなんてのは日本には存在し得ない、詰まりリベウヨの概念が欠如しているのだ。」 これが俺が国籍離脱した原因でもあり、哲学的政治的にリベラルである為には自由圏諸国に帰化するしかない所以である。 努力虚しく日本は時代逆行してしまったのだ。

2017年7月14日 (金)

文明化

日本が聖俗未分離の前近代社会である事、近代文明が西洋文明である事から鑑みて近代文明を構築している普遍主義を避けては通れない。 それを避けて通っているのが日本である、結局日本人は文明化したくないとも言える。

だから、近代文明が普遍主義で構築されていてそれに基づいて憲法も普遍主義で構築されているにも関わらず憲法を守れと言うとリベサヨ扱いになる。 普遍主義(洋魂)は避けては通れないのに避けて通ろうとする、洋魂は和魂で代替出来ないのに無視する。 結局普遍主義を拒絶している事に他ならない。

和魂洋才の捻れから逃れる為には洋魂洋才の環境で帰化するしか無いのである。 科学の目的は全能性の追求であり手段は普遍性の追求である。

その両方の追及姿勢の欠如する日本では本来科学の生まれる土壌は欠如し、従って日本の科学は宗教に近い、日本人は科学教の信者であるとも言える。 だからノーベル賞受賞者の根岸さんがインタビューで「真理の探究もさる事ながら科学も大切である」と頓珍漢な事を言ってしまうのである。 科学の目的は真理の探究じゃなかったのか。

一時、普通はとか皆はとか言うと普通とは何だ全員に聞いたのかと絡む人間が跋扈した事がある、そういう人間は必ずや一般論化しないでくれと多様性を主張する、科学の手段が普遍性の追求であり、要素還元主義である以上、共通項で括り一般化しないで科学は成り立たない。 科学の手段が普遍性の追求である以上、科学者こそ普遍主義をもっと知るべきだと思う、普遍性の追求の先に自由平等博愛の考えがあるのだから。

2017年7月15日 (土)

日本人は個の確立が出来ないから神が居ないのだ。

俺がよく自分は25年間もの間地べたをのたうち回り人生をこねくり回して得た結論がオーストラリアに帰化する事だったと言うが、常に控えめに書いているが、25年と一言で言っても只の時間の経過じゃなくて一度に沢山の本を読んで情報を闇雲にインプットしそれがこなれて出て来る迄に時間が掛かる訳で、それこそニューラルプルーリングじゃないが縦横のインデックスが繋がって初めて理解するに至る訳でそれなりの時間を要する。 教科書が無い状態で一つの目的に向かって進むのは容易な事では無い。

まさにユーレカって感じで体感する、並行して進めて来た事が一寸した切っ掛けで繋がったりする。 例えば仕事上編み出した、「国籍を超え、年齢を超え、性別を超える」のスローガンが何の事はないそれ迄追求していた普遍主義の実践だという事に気が付いたり。

最近では『ワンネス』を書いてから25年目にして結局本音と建前が主観と客観そのもので限りなく一致させるべきもので、それらが離れたまま看過するべきではない事に今更ながらに確信したりした。

例えばニコラスクザーヌスの所謂「個は全を包含する」という言葉にしろ、「一にして全なる個」という言葉を体感するのに20年以上の月日を要したりする。 大体、哲学的にリベラルであり政治的にもリベラルになれた事すらオーストラリアに帰化してから実感したものである。 内なる神を探る作業は単なる知識の集積ではない。

神体験ってのは本を読んだだけで簡単に出来るものではない。 個の確立が近代文明ひいては日本人の文明化の要である事を日本人が理解さえ出来たら状況はかなり楽になると思う。 これを平易に解説出来たらどんなに良いものかとつくづく思う、それを日本人は神が居ないから個の確立が出来ないと言ってしまったら文明化の道を断つ事になる。 そこで言いたいのが、神が居ないから個の確立が出来ないのではなく、個の確立が出来ないから神が居ないのだと。

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