自伝

結論

自分の魂の命令から逃げよう逃げようと何度も試み、その度に原点に引き戻され、その繰り返しが幾度と無く続いてしまった。結局、私が最後迄こだわった生業としての経済活動であった会社でも、私は柳田芳秋ではなく、柳田國男の孫としか扱って貰えず、傷付いてしまった。その時初めて私は、恐れないで、自分の魂の言い付けに従ってみる決心が着き、経済活動からたとえ食べて行けなくなったとしても、身を引く決心が出来た。

調べれば調べる程

最近、仲の良い友人が訪ねて来てくれて、今の世の中の悪いのは皆団塊の世代の責任だと言われている、と聞いて、一寸待てよと思い、それには俺にも言いたい事があると団塊の世代の一員として思った。勿論戦後のベビーブームの子供が第二次ベビーブームをひき起した事は間違い無いだろう。かと言って我々は突然この世に生れ出たのではない。戦後マレー半島を取られゴム製品が不足してたのも理解出来る。小学校時一クラスに五、六十人居たり、大学に入っても三百人も入るマンモス教室でマスプロ教育を受けた事も事実である。以前小生が未だ会社に勤めて居た頃、大学の教師の親父に、最近の新入社員の表現力の弱さを嘆いて、その原因をマスプロ教育が生み出した○×式のせいであり、その為に「自分で考える」事が出来なくなってしまったからである。と言うような事を言った事があり、当然○×式の生みの親である産みの親から否定された事を思い出した。私のここで言いたかったのは、米国からプラグマティズムが入って来た時に、頭の進んだ学者が真先に教育に取り入れたからで、本来合理主義は業務にこそ取り入れるべきであって、教育の合理化等良い結果を生む訳が無いという事である。そもそも小生の「自分探しの旅」の始まりはこの「○×式」に対する疑問にもあったのである。

戦後の事を考えると、日本にはタブーが多くて気を遣う事が多いと感じので、私は最近近世史をさらい直そうかと思っている。日本人のメンタリティーを知る為には戦後の事をもっと良く知らなければならないからである。天皇制の事、国家神道の事等日本人の心の中に根強く残っていると思われるからである。敗戦により「和魂」が負け「洋才」だけが残った。かと言って「洋魂」になる訳にも行かず、魂を抜かれた儘五十年以上過ぎてしまった。善かれ悪かれ魂は必要である。

「歴史は遡るものである」と考える柳田國男も曾て同じ事を言っていた。

「私は終戦の次の年の正月、ある新聞に一文を寄せて、これからは近世史ことに最近世史の研究と教育に、うんと力を入れたいと主張した。その運動はいささか挫折したが、それでも細々ながらなお続けている。」

器用な日本人は「建前」として新しい社会を受け入れ、「本音」である神道的「世間」を「隠れ切支丹」ならぬ「隠れ神道」として残した。つまり魂は依然として神道的ムラ社会なのである。何回も言うが、ムラ社会は個の確立を疎外する。個が確立されていない状態だから、逆に抑え込んで呉れる何かが無いと不安なのかも知れない、例えば教育勅語のようなものが。教育勅語があった時の方が秩序が保たれていたのでは何とも皮肉な話ではないか。マゾ型社会にはファッショの恐れが常に付いて回る。個が確立されていないと、どうしても自己実現の成就をムラ社会に期待する事になり、学者の言う事すら色が付いてしまい易い。先ずは個の確立である。

「各自の生活からにじみ出た自然の疑惑こそは、学問の大いなる刺激である。これを些々たる要領の暗記によって、一通りは習得したごとく自得させるなどは、一言で評すれば文化の恥である。」

と、柳田國男だって言っているではないか。

最近「学級崩壊」という言葉を良く目にする。個の確立を伴わない個性の尊重は、甘え、我が儘を助長するだけである。個人主義というのは自己の確立した大人の世界なのであり、ムラ社会が個の確立を疎外している限り、自由主義、個人主義は危険そのものである。日本全体が個の確立が出来ていない時にどうして教師にだけ期待出来るのか。教師も悩む生徒も悩む、団塊の世代に責任をなすりつけている場合ではない。先ずは日本そのものが大人になる事であり、それには個人の自己の確立が必須なのである。

「柳田国男」と「ルネサンス」の二つのホーム・ページを常に対比させて近代文明に日本人はどう対応すべきかを考えていると、決定的な違いが浮き彫りになって来る。片や相対世界べったりで違いを見つける事ばかりに終始する日本人像、もう片方に共通点で括ろうとする西洋人像、拡散と収斂という合い交わる事を知らない構図である。これは死ぬ間際迄相対世界に留まる日本人と、生まれてすぐ絶対世界に足を踏み入れる西洋人の違いとも言える。極言すれば日本人は死んで大人になり、西洋人は生まれて大人になるという事である。ここに日本人の「甘えの構造」があると同時に、共通項で括る事に対する弱さ、つまり科学の基本である「要素還元」或いはロジックの基本とも言える「因数分解」に対する弱さが表れてしまうのである。学者でさえ学会という「ムラ社会」に「アイデンティティー」を見つけ、本音では何も語らず、引退すると始めて悟ったかの様に諸行無常を唱え始める。教育者たる者気がついたら即発表する気構えが欲しいものである。

たまににネット・サーフィンと洒落込んで、柳田國男関連の内外のサイトをサーチしてみても、以前と何ら変わる事無く民話、伝説の研究者の域を出ていない。最近日本の英語堪能の学者の紹介も増えて来た事は事実であるが、依然として「遠野物語」の域を出ていない。大事なのは柳田國男が民間伝承を通じて何を括り出したかであり、「民俗学」そのものは彼にとっては手段に過ぎなかったのであり、目的はより良い日本の為の「国のいしづえ」の確立にあった事を今一度確認する事である。残念ながら、國男の括り出したものは悉く近代文明とは相容れないものばかりである事は否めない事実であるが、近代文明を否定する根拠は何処にも無い。柳田國男の括り出した問題点は、現在日本の抱えている、教育問題、憲法問題、沖縄問題、外交問題等全てを解決する事の緒なのである。私自身の出発点が、自分が如何に日本の「世間」と会わないかという事だったので、祖父の言葉の中に、何とかヒントが見い出せないか必死で読んだ。調べれば調べる程、祖父の括りだした日本の特徴は自分に会わない。少し期待外れだった。今回、柳田学を通して日本古来の伝統が悉く自分体質に合わないという事を嫌と言う程学んだ、せめてもの救いは祖父が、「国民の美点だったものでも弊害あると心づいたら改良しなければならぬ」と言って「改良」を唱えていた事位である。

 
「終戦後のある日、柳田は筆者にこう語っている。「私はね、消えていくものには消えていくだけの理由があり、それを元へ返せなどと考えたことも云ったこともない。しかし今度は違う。滅んではならないもの、滅ぼされてはならないものがある。だがそれを国民にわからせようとするには、わたしは年をとりすぎた。時間がない」

と私の叔父に当る宗教学者の堀 一郎に語ったそうである。

祖父は島国の特徴である付和雷同は民主主義、個人主義に合わないので、たとえ昔は美点だったとしても、弊害があれば改良すべきであると言っていたのである。祖父にとっての「文化」とは「改良」と同義だったという事もその時判った。然し、改良を唱えながらも高齢な祖父には解決策を見い出せなかったのである。終戦直後に、祖父は既に「わたしは年をとりすぎた、時間がない」と言っていた位であるので、それ以上彼に求めるのも酷な話であるが、「日本のいしづえ」、「日本人らしさ」を追い求めていた彼にとって「文化の植民地化」が一番の関心事だったのである。私が生れた昭和二十三年は、丁度ルース・ベネディクトの、あの著名な『菊と刀』が翻訳出版された年でもある。今では「恥の文化」という言葉だけ独り歩きして、他の重要な部分は霞んでしまったみたいであるが、わたしは、『菊と刀』がある面で、柳田の限界を示していると考えている。当時の日本の学者は、アメリカの押し付けがましい普遍主義に嫌気がさしていて、公平な判断すら期待出来ない状態だったようであり、これなんかも情緒的な日本人の性格を物語っている。

  1. 惟神の道、即ち神ながらの道は祭に参加しないと究める事は出来なかった。
  2. 「世間」教育というものは、小さな社会で、お互い干渉し会って来たのであり、  若者を諺を使って嘲笑して鍛えて来たのである。
  3. 師弟道というのも元々親分子分の間の「義理」から生れたものなのであり、これが学問の世界にも政治の世界にも入り込んでいる。
  

これ等が「民間伝承」として両親に受け継がれて来たのだとしたら、彼等が子供にしたのは嫌みを言う事だけである。一時は、両親に「子供をいびる為に産んだのか」と言っていた位である。会社で虐められ、家でいびられ良い事は無い。この義理人情というものを考えただけでも筆者は拒絶反応を起こすのである。この内のいずれも自分の好みに会うものは無いのである。逆に皆良く我慢しているものだと感心するのである。逆にこんなものを受け入れる位ならば、たった独りで孤独な時間を過ごした方が未だ良いと思う。

知れば知る程

裏付けを取る為に、学者の書いた本を読んでいると、知れば知る程、自分が日本の社会に如何に合わないかが判る。

  1. 日本は国家形成が早かったので、統一原理としての宗教は必要無かった。
  2. 神道は政治的価値に従属する世俗宗教である。
  3. 日本はヨーロッパと違い聖俗未分離であり、これは遅れで無くて違いである。
  4. 日本の「世間」は言わば非言語系の知を代々受け継いで来たものである。

日本の学者さんたちは、海外に留学し、或いは内外の文献をくまなく読み、微に入り細にわたり、徹底的に分析し、この様に、客観的に日本の特徴を指摘する。柳田國男が民俗学をして、自己内部省察の学問であると言ったのを、いつの間にか、「省察」から「詳察」にしてしまった様である。 しかも、良否の判断は下さない。それはいかにも純粋科学者の態度にも見えるが、括り出した結果に対する対策を考える事はまるで自分の担当でない様な顔をしてしない。或いは出来ないのかも知れないが、兎に角蚊帳の外である。不思議な事に、國男の括り出した「特徴」も知らず知らずの内に、「特長」に変質して行く。そして最後にはお決まりの無情論である。ここで、私の叔父の文章から見てみたい。と言うのは、私は学者でないので、出来る限り批判的な態度は取りたくないと思うからで、只、疑問にだけは答えて欲しいという切なる願いから言っているからである。叔父だったら、私の疑問にも誤摩化さないで答えて呉れそうな気がしたからである。

「日本の文化は、合理主義と不寛容と自己確立、すなわちすべてに徹底性を要求するヨーロッパ文化と鋭く対立する有限と相対の文化であるともいわれる。」

と、ここで既に、ヨーロッパ文化との対比になってしまい、近代文明を西欧文明から切り離して考えていない。

「日本人が物事を曖昧なままに放任し、矛盾を容易に是認し包摂してしまうような相対的な態度は、一面では論理主義の発達をさまたげ、倫理の厳粛性を欠くとはいえ、他面では外来文化をプラグマティックに選択受容し、変質統合するという特殊な才能を可能にしたといえるかも知れない。」

と、日本人が器用に猿真似して似て非なるものを造り出してしまう事をも是認してしまい、

「世俗のなかに宗教を埋没させたということは功罪相半ばする。しかし多くの世俗を支配した律法主義的国家が、こんにちの近代化と国際協力の上に大きな障害をなしていることを思うと、近頃ベラ教授などの提唱するCivil religionというものが日本宗教の本質を構成する要素になっていることを考えずにはいられない。」

 

「千年以上も前につくられた律法や戒律不寛容性を強調する宗教が人類の進歩にどれだけ将来貢献し得るのか。近頃、イデオロギー運動の宗教化現象を見るにつけても、わたくしははなはだ懐疑的たらざるを得ないのである。」

と、他所が旨く行っていない事を盾に、自分を安易に肯定してしまっている。

たとえ、一神教の国々が争いばかり繰り返して、一向に改善する兆しが見えなくても、それならそれで、汎神論の日本の社会に近代的なロジックを身に付けられる様に努力しないのか、解き明かすべきではないのだろうか。

「個人学」をひねり出す

「和魂洋才」であるとか「世間と社会の二重構造」であるとか、日本の特異体質の考察を通じて、私はある種の結論に達した。そこで最終的に到達したのがこの「個人学」である。これは、これ迄輸入の学問に頼り切って来て、同時にそれを信じて疑わない日本人には、近代文明の解釈学が必要との見地に立って、編み出した苦肉の策であり、日本人が一神論を抜きにして、如何にしたら、個の確立の重要性を認識し、個を確立出来るかを解き明かそうとする試みである。日本人は論理的でないと言われても、ない故に理解出来ない。百歩譲って、たとえ論理的でなくとも、情緒的でなければ未だ救われる。論理的でないと、理解力が不足してしまい、どうしても情緒に訴える事になる。こんな事を言いたい為の裏付けを取る為に、色々な方の本を読み、そこで私は、ある事に気付いたのである。それは「知らなかったのは自分だけであった」という事である。つまり、誰も自分のように、日本の特異体質を嫌だと思っていないという事である。

私はそれでも納得出来なかった。ルネサンスの研究を通して、原因は日本人の「普遍性追求姿勢」の欠如にある事だけは判っていたのだが、その当時はそれが全て「神道」という日本の根幹部分にある事すら気付かなかったのである。柳田学の論文を纏め、祖父の本を読んでみても、理解は出来、疑問は解けたが、自分の悩みは一向に解決されなかった。それは、いくら特異体質を掴んでも、自分の生きている内に社会は変らないという事である。ホームページを開いて疑問をぶつけてみても、誰も答えて呉れる訳じゃ無し、正直言って途方に暮れたのである。その時、前々から考えていた、「個人学」の構想をぶつけて見ようという気持になったのである。 個人と言うとすぐ、人は個人主義であるとか、自己中心主義であるとか、表面的な現象面だけを捉えて、議論しようとし、それは有名な大学の先生に至る迄徹底しているのである。私の言わんとしている事は、「個」でもって、個人主義じゃないといくら言っても理解して貰えないのである。

筆者の言いたいのは、社会に於ける個人の位置ではなく、近代文明の淵源における個の位置付けなのである。最近もある著名な先生の本を読んで、直すのは不可能であると書いてあるのを見付けがっかりした。私がいつも感じていた、日本の先生は退官してからでないと、本心を語らないという事をもろに現していたからである。これでも未だ良い方で、家の親父みたいに散々科学礼讃を唱え、息子達に威張り散らしていた人間が、「結局人間は理解出来ない」と覚ると、その途端沈黙し始める人間が大部分だからである。その時私は、西欧の人間は生れてすぐ大人になり、日本人は死んで大人になるという違いを再認識させられたのである。

「世間」からの遊離

こんな事が正直に書ける様になって来たのも、今迄の社会に認められたいという気持が薄れて、諦めが先にたっているからかも知れない。先日知り合いのアーティストと私が書いた論文について話していた時、筆者の「日本人はエゴのコントロールを他力的に行っていた」と言った言葉に過剰反応を示した。彼は私の書いた文章を読んで、「日本人」の部分を「自分」に、「世間」の部分を「家族」に置き換えれば良く分ると、したり顔で言った。「もっと自分をさらけだした方が共感を得られる」とも言った。或いは彼の言っていた事が正しいのかもしれない。しかし、大体、人間の悩みなんか大部分が個人的な物なのである。私の文章が余りに達観している様で気に入らなかったに違いないが、達観しなければ哲学なんか出来ないのだ。「日本人は自分を客観視するのが得意でない」という点については、彼は、「日本人も海外にどんどん行くようになって、自分を客観視するチャンスは増えている」と言っていた。自分を客観視するのは何も海外に行かなくても出来る。客観を客観視するのは誰にだって出来るとその時思った。矢張り日本人は自分を客観視するのが苦手な様である。彼は更に「もっと柳田さんも「世間」に受け入れられる努力をしろ」とも言った。勿論私は自分から日本の前近代的「世間」に逆らって生きて来た事は確かである。だが私の場合は自分でした事であって、「自力」である。私の言いたかったのは「他力」に頼っていた人間が拠り所を失いつつあるという事である。私にはその時彼が、何故反論の為の反論を繰り返すのか理解出来なかった。特にアーティストは特殊なのか、アートを芸術と訳すか技術と訳すか大分違って来るとは思うが、彼等がオリジナルと思っているのが只の猿真似かも知れないのに、芸術が客観だとか、普遍性だとか一番関係していると思われるのにも拘わらずである。その日の夜たまたま夕刊を読んでいたら、「文化」というコラムに「熱い美術 東南アジアを歩く」と題して、コンテンポラリーアートを「コピーのコピー」と表現しているのを見付けた。「また、私たち日本も、その『コピーのコピー』の連環の中を歩んでいる。よその話ではない。」と結んでいた。その時私は、自分の言いたかったのはこれだと思った。自分達が一番必要としてるのに、まるで自分達は既にユニバーサルになったみたいな顔をしている、それが今の日本人なのである。彼はおまけに、「アメリカ人だって年がら年中そんな事を考えていない」と付け加えたのである。私が彼に見せた論文で、私が図解迄して、特に強調したかったのがそこだったのである。彼等は社会システム自体を、個から全への循環するシステムにしていて、個人がいちいち考えないでも済む様になっている、というのが、私の持論であり、近代文明の要の部分である、と私は信じているのである。面白いもので、彼みたいな人間にこそ、私の主張する、「個人学」が必要と思われるのに、一番必要としている人達が一番その事に無関心なのである。

今回の自分の考察は、固有の問題を更に普遍的な問題に昇華させて、再び自分に戻すという試みだったのでこの言葉は心外だった。これは精神科医が先ず自分の精神分析をしてから、医者になるというのに似ている。 私も会社勤めをしている時分は、異なるジャンルの本を一度に三冊並べて、一つに飽きれば次の本、それにくたびれれば又次の本と、経済の本、マーケティングとか経営とかのハウツー物の類いの本を読む傍ら、当時流行っていた「モラトリアムの人間像」の様な自己分析本を読んだが、それでも、小説だけは読まなかった。それは、事実は小説より奇なり、と言う様に、下手な虚構より自分のそれ迄経験して来た事の方が余程面白くかつ残酷だったからである。

自分が日本の社会に会わないのは戦後やっと物が豊富になった時期に生まれ、モダンな両親に育てられたからなのか。それとも、幼児洗礼を受けたカトリックだからなのだろうか。はたまた、中学の時親に着いて英語も出来ないのに一年アメリカのパブリック・スクールに入れられ、アメリカ流個人主義に直面して、その中で生きる為の自己を主張するのに苦労したからなのか。こういった条件がすべてミックスして、人間の人格は形成されて行くのは理解出来る位の能力は持っている積もりでも、どうしても妥協出来ない性格、社会に迎合出来ない性格がそれらに作用して悲しい結末を招いているのである。確かに自分は祖父が考えていた様な「世間」教育は受けていない。これが、國男の言う「社会が激変する時期は、ジェネレイション間の連絡が重要である」と言っていた様に、祖父と私の両親の間のコミュニケーションが旨く取れていなかった節も見られる。しかしたとえ自分が「世間」教育を受けていたとしても、今や虐めの構造と化した所謂國男の言う所の「群の制裁」、「笑いの教育」に素直に従っていたとも思えない。きっと今と同じに「世間」と戦い続けていたに違いないのである。 自分なりに原因を解明してみるが、いずれにせよこの全くと言って良い程自分の好みに会わない、日本の社会或いは日本人のメンタリティーが、少なくとも自分の生きている間には変らないという事を認識して、諦めもついたが、何と言っても嫌いなのである。

自分では自分の考える事が正しいと信じ、今の世の中の方が間違いであると思っているのだが、社会が変らないという事は、国民が望んでいないと言う事でもある。この五十年に自分が犯した最大のミステイクは、自分が認識していた近代化の意味がマジョリティーの人間が認識しているそれと大分違っている事に気付かなかったという事である。この民主主義の世の中では、自分の認識がいくら正論でも社会では通用しないという事なのである。つまり百人中五十九人の人が君は間違っていると言えば、間違いなのである。従って自分がいくら正論を吐いてもマイノリティーなのである。逆から言えばマイノリティーである内は、これを正論と呼ぶ事すら出来ないという事でもある。これを避ける為には、自分の時計をずらしてやる他に道は無いのである。

最近諦めがついてやっと気が楽になったが、常に何か経済活動に参加しなくてはいけないという強迫観念に駆られて、家にいる時も針のむしろだったのである。と言うのは、経済活動を止めるという事は、食べて行けないという事であり、致命的な問題なのである。貯金の目減りと共に行動は地味になり、友人との社交もめっきり減って寂しい限りであるが、その寂しさも今迄派手にやって来た事に対する反動なのだから甘んじて受ければ良いと思う様にしている。結局人生は喜びも悲しみもツーペーであると思い、現在の静けさも、若い頃の賑やかさの反動であるのだから、その内平均化されると思っている。お陰で色々学んだ。今迄自分を潰そうとする人間を威丈高になって何人も傷付けてしまっい、その度に周囲から一人去り、二人去り、孤独を味わった。反省もしている。しかしこれは基本的な価値観が根本的に違うという事に気付かなかったからなのだ。

前にも御紹介させて頂いた小冊子に、「心について」と題して書いたものがある。

「誰かと話をしている時、相手の言っていることをそのまま聞いていると、つじつまが合わなくなる時がある。何度確認しても、一つ一つの要素に私の聞き漏らしもなければ、誤解もない。こんな時は必ず相手が自分の心を偽っているか、自分の潜在意識に気がついていない時だと私は思っている。結局人間の心は傷つき易く、傷つきたくないという気持が、自分の心をも偽るのだと思う」

「相手が自分自身の気持に気がついている場合はまだ良いが、気がついていない場合は本当に困る。偶然に相手の潜在意識を引き出してしまったりすると恨まれることになる。」

「周囲から人が一人去り二人去り、ついては離れ離れてはついて、真実を伝えることの難しさ、正義を守り通すことの難しさが感じられる時がある。只微笑んで「ハイ」と言っていれば良い訳でもなく、身内でさえこんな感じであり、いわんや世間に於いてはなおさらである。」

この冊子は家族の間の確執、葛藤が最高に達していた時書いたものなので、「身内でさえこんな感じであり」という表現をして文句を言われた事もあった。筆者の家族は、父親の教育のせいか、遺伝のせいか皆一応に理窟っぽく意見の一致をみた試しがない。上の文章でも判る様に、身内でも妥協を許さない傍から見ればどこか恐ろしいものがあり、筆者は全て理詰めですすめるやり方こそ、近代的な洗練された議論の仕方と信じて生きて来たのである。

如何に自分を納得させるか

会社を辞めて以来、試行錯誤して、色々試したが、結局は原点に引き戻されてしまう。以来十二年間悩み続けている。この十二年の間、心理学の本を読み、哲学者の書いた本を読み、精神世界の本を読み色々試したが、自分の疑問を払拭して呉れる様な物には遭遇していない。一つ一つしがらみを切って行き、今では何も無くなってしまい、さっぱりした感じである。社会での様々な軋轢を通して人はその度にひと回りもふた回りも成長し、大きくなって行く。置かれている立場での、それなりの幸せ感も感じられるようになる。然し、学んだ事が、自分の描いていた幸せ感と必ずしも一致する訳じゃないという事である。それに気付いた時、私は人生とは、「如何に自分を納得させるかという事である」との結論に達した。それでも未だ本当に納得した訳でもない。離婚して以来社会と噛み合わなくなった歯車を何とか噛み合わせようと、もがき苦しんだ時期もあった。自棄になって盛り場で飲み暮していた時期もあった。新宿の歌舞伎町のど真ん中の喫茶店で、ヤクザのお兄さんに囲まれながら物思いに耽った事もある。その時、「ああこんな喧噪の中でも哲学は出来るんだ」と思った。一見無駄の様なそんな経験が今も生きている。俗を知らなければ聖なるものも見えて来ないという事も学んだ。

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