パラダイムシフト

憲法論議に想う

この文章は数年前に筆者が未だ日本にいた頃のものです。

5月3日の憲法記念日を待たずして憲法論議が盛んである。 いずれも九条絡みの各論であり、対症療法的なものである。

国の在り方と個人の在り方は必ずしも一致しないものであり、個人の記憶の中に曾ての「和魂」がいくら残っていようとも、憲法前文で「人類普遍の原理」を掲げて国の在り方を謳っている限り、その普遍性を追求するのは当然である。 同じ国家でも、Stateとしての国家は建前で、Nationとしての国家が本音では、何時迄経っても「人類普遍の原理」は理解出来ない。 この憲法はなんせ到来品ですのであくまでも建前ですと言う訳にも行かない。 憲法に載っている事が建前で本音は別の処に在るのでは、本末転倒である。

頭では理解出来ても身体が着いて行かない、時に記憶程扱い難いものは無く、同時に記憶程当てにならないものも無い。

「『近代日本』というのはヨーロッパ人にとって、それ自体生きた矛盾である。」と曾てカール・レヴィットが言い、「どれが固有文化でどれが借用文化だという記憶を、強くながく持ちつづけている社会は、日本以外そう多くは存在しない。」とロバート・N・ベラに言わせた過去の記憶に頑にこだわる日本人。

「ある文明の普遍的と目される特質を助長するかわりに、文化の共存に必須であるとして求められるのは、ほとんどの文明に共通な部分を追求することである。多文明的な世界にあって建設的な進路は、普遍主義を放棄して多様性を受け入れ、共通性を追求することである。」とサミュエル・ハンチントンは著書「文明の衝突」の中で言っている。

日本国憲法が押し付けられた普遍主義ならば、それに代わる確固たる哲学が必要であり、それ無しでは世界との共通点を見い出す事すら出来ない。 与えられたとは言え、理想的な憲法を持ち乍ら、理想的な故理解出来ない、日本はこのジレンマからいつ脱出出来るのだろうか。

たまに戦後のアメリカのGENEROSITYがすべて裏目に出てしまったと思う時がある。 巣立ちするのが早過ぎたとも思える。 曾て植民地だった国の方が却ってオリジナリティーを主張して世界に認められている。 これだったら一度植民地になっていた方が良かったかも知れないとさえ思える時がある。 国が二つに分断される事も無く、植民地にもならず、甘やかされ過ぎた大人になり切れない国では困る。 植民地でもないのに、FM放送では英語が氾濫し、自己植民型とさえ言える。その割りには皆英語にからきしである。 これは漱石の言う処の「外因性」に由来するのか、与えられた自由は勝ち取った自由に対してこんなにも弱いものなのか。

『改憲反対が強いのは六、七十代。この世代はトラウマ、つまり心に戦争の傷がある。しかし、三、四十代は日教組教育が弱くなって純真、天衣無縫。改憲賛成が多くなる』と中曽根氏の発言を取上げ、「つまり憲法は政党の問題ではなく世代の問題なのかもしれぬ。」と言い、『先の戦争の被害者がみんな生きているよ。だから、まだ早すぎるんだ。その世代がこの世からいなくなって論議して、憲法を変えていく必要があるならそれは結構だ』と後藤田正晴氏の言葉で結ぶ朝日新聞の記事を見て、憲法問題を世代の問題で考える姿勢に何か恐ろしいものを感じるのは私だけだろうか。

世代を超えて通用しない憲法があって良いものだろうか、これでは「人類普遍の原理」には程遠いのである。 日本人はどこ迄も「人類普遍の原理」に弱い様である。 何とも不思議な国である。

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