自伝

子供の頃

私の名前は、柳田芳秋である。 この名前は、私が秋に生れたので、祖母が付けて呉れたものであり、自分では気に入っている。 生れたのは、昭和二十三年の十月二十四日であり、ねずみ年の蠍座である。 血液型はA型であり、干支にしろ、星座にしろ、血液型にしろ、自分では最悪のコンビネーションだと思っている。 嫉妬深くて、激しくて、細かくて、その上気が小さい。 両親は、二人とも大正生まれの、坊々とお嬢さんであり、父親は大学の生物学の教師、母親は専業主婦である。 私が、四人兄弟の末っ子として生れたのは、丁度戦後の物がやっと豊富になって来た時期であり、母が進駐軍のレッド・クロスで一時期アルバイトをしていた関係で、米軍の粉ミルクで育ったらしい。 らしいと言うのは自分では何も覚えていないからである。 生れた時は、一貫と五十匁あったと言い伝えられている、猿の様な真っ赤な顔をしていた赤ん坊だったらしい。 私がアイデンティティー・クライシスを起こしたのは、社会に出てからであり、それ迄は 順調に推移しているかの様に見えていたと記憶している。 原因は家庭的な要因と社会的な要因の競合脱線だと思っている。

学校の事

幼少時

私は幼稚園にも大学院にも行っていない。 その中間だけはかろうじて済ませている。 大学院に行っていない事は何の支障にもなっていないが、幼稚園に行けなかったのは致命的である。 私はそこで人生最大の遅れをとってしまい、それを未だに尾を引いているのである。 年子の兄は近所の教会の経営するカトリックの幼稚園に行っていて、大人しくて評判の良い子供だった。 それに較べて私は、何をやっても駄目な甘ったれな泣き虫だった。 その教会の神父が私を受入れてくれなかったと、母がいつも言っていた。 なので私は、今でも折り紙は下手であり、お遊戯的フォーク・ダンスも苦手である。 女との付き合い方はどうも幼稚園で教えてくれるものらしく、大学生になる迄それを引き摺っていた様である。 すぐ上の兄が幼稚園に行っている間は、母にくっ付いていた。 何回か数寄屋橋の映画館に連れて行って貰った記憶がある。 「陽気なドン・カミロ」、「チャップリンのモダンタイムス」、ジュリエッタ・マシーナとかいう女優の「道」という映画なんかを観た記憶があるが、それがその時だったからはっきりしない。 未だ橋が有って、橋の上ででブリキの水鉄砲を、兄の分と二つ買って貰ったのを覚えているし、映画館の椅子を立てたまま、その上に座らないと前の人が邪魔で何も見えなかったのだから、きっとその頃だろうという程度である。 私が「おお、ジェルソミーナ」と口ずさんでいたのは一体いつなんだろう。 映画に詳しい方なら、ああそれは昭和二十七年頃だよとすぐに分るのだろうが、私には調べてみる気力も無い。 そのお陰で今でも兄弟から「芳秋はママから溺愛されていた」と責められているからである。

小学校に入ってからも、他所の家の便所には入った事が無かった私は度々お漏らしをした。汲み取り式の便所は特に苦手だった。 その度に用務員の小父さんの自転車の後ろに乗せられて家に送って貰っていた。 銭湯にも行った事が無く、小さい頃お手伝いさんに頼んで入り口迄見学に行った記憶がある。 小学校に入る迄お使いにも行けなかった子供が、後に父から「買う買う族」と渾名を付けられる程、無類の買い物好きになったのだから面白い。 最初にお使いに行って帰って来てからミルキーの箱を嬉しそうに頭に載せて撮った写真がある位である。 頭を坊主に刈っていたので、水疱瘡に罹った直後だと思う。 買って来た物がミルキーというところから見ても、これはお使いではなく、訓練だったのだろう。 何せどうしようも無い駄目な子供だったのである。

小学校時代

私の父方の祖父は、民俗学者の柳田國男である。 私が物心付いた時は、もう既にかなり有名になっていた。 特に、区立の小学校に入学してからは、使用していた国語の教科書が、柳田國男監修となっていたので、子供心に、「オジーって偉いんだな」と感じていたのである。 小学校にの三年生位迄は記憶が無いから、知ったのは四年生位になってからだと思う。  私の母は、遠足にも、運動会にも来てくれた事が無く、いつも他の生徒を羨ましく思っていた私は、或日祖母に、今度の運動会に来てくれる様に頼んだ事があった、自分としては、校庭のあの石灰の粉で書かれたトラックを囲んで敷かれた、ゴザの上で一緒にお弁当を食べて欲しかっただけなのであるが、私の夢は儚く壊れてしまった。 今も思い出すが、当日祖父と祖母は、あの独特の物静かな歩き方で校庭に入って来たのだが、驚いたのは学校の先生方で、前ぶれも無く姿を現した柳田夫妻を、私に告げる事も無く、朝礼台の脇に張られたテントに案内したのである。 私が期待していたのは、御座ではなくゴザだったのだ。 以来、私は人に紹介される時、「この人が柳田芳秋さんです」と言って貰える事が無く、いつも「これが柳田國男の孫です」と、言われ続けて来た。 思えばこれが、私のアイデンティティー・クライシスの始まりなのかも知れない。 私は学校時代の自分自身を振り返るといつも「なんていけ好かない野郎だったのだろう」と思う。 きっと皆もそう思っていたに違いないと思う時がしばしばある。

電車にはねられる

それは、丁度私が小学校の四年生になったばかりの五月のある事件から始まっているのである。 忘れもしない、今は亡き彼の有名な、石原裕次郎氏が成城に引っ越して来た時である。 私は学校から帰ると、いつもの様にランドセルを放りだして、隣に住んでいた友達と、引っ越して来たばかりの裕次郎の家を見に行こうと言い出したのである。 母に告げると「大きい踏み切りの方から行きなさいよ」、「途中でパン屋に寄ってパンを頼んで来て」と母が言ったのを覚えている。 そのパン屋が、遮断機の無い所謂小踏み切りの近くにあったのが、悲劇の始まりだった。  私は買って貰ったばかりの二十四インチの自転車で意気揚々と出掛け、途中パン屋に寄った迄は良かったのだが、大きい踏み切りを通れという母の言い付けを守らなかったばかりに、坂になっている小さい方の踏み切りで、自転車もろ共発車したばかりの小田急線の電車に突っ込んでしまったのである。 その時、生え代ったばかりの前歯が皆折れてしまい、今では三代目の差し歯も歯槽膿漏の為ぼろぼろ抜け落ちて、みっともない入れ歯の状態である。  電車が駅から出たばかりだったという事も幸いして、私は自転車共放り出され一命を取り留めた。 私はその時の記憶は、はしゃぎながら、口で「チリン、チリン」と言いながら自転車を運転していた事以外は、今でも一切無い。 その踏み切りの傍に私が生れた病院があり、私はふらふらになりながらその病院の前迄行きバッタッと倒れた、と助けてくれた酒屋の若旦那が後で言っていた。 その人の娘は年子の兄の同級生で、何度もジュースを一ダース持ってお見舞いに来てくれた。  意識不明の絶対安静状態が長く続き、気が付いた時は、母が、その時彼女が死に部屋と呼んでいた、火鉢しか無い三畳間の病室で一生懸命看病してくれていた。 その時程母親の強さ、優しさを感じた事は未だかつて無い。 こういう時はお祈りが効くんだと言って、一緒に「天使祝詞」というお祈りを何度も繰り返し唱えたのを今でも覚えている。 その頃の母は本当に優しかった。 私を幼稚園に入れてくれなかった件の神父も度々来てくれ、枕元で、「君が助かったのは、神様のお蔭だよ」と何度も言っていた。かくして私は蘇ったのであった。  その後、幸か不幸か母が火鉢の一酸化中毒に罹り、廊下で倒れた為、二階の陽当たりの良い病室に移され、その後は順調に回復出来た。 祖母も何度も好物のカスタード・プディングを作って持って来てくれ、お見舞いにその頃出たばかりの高価なラジコンバスをねだって買って貰ったりして、兄弟から再び、今でも語り継がれる位のひんしゅくを買う事になったのである。  私は今でも信じているのだが、この時私の魂は一度入れ替わってしまったのである。 命と引き換えに、悪魔に良心を売り渡してしまったのかも知れない。 学校に復帰してから、その時の担任の先生が、「君はあの事故の後すごく頭が良くなったよね」としみじみ言ったのを今でも思い出す時がある。 自分でも認める位、それ迄の私は何時も口を半開きにした、お世辞にも頭が良いとは言える子供ではなかったのである。 その後私が二十歳を過ぎる迄、母は後遺症の心配をしていたそうである。  先日書類を整理していて、その時の小田急電鉄との間に交わした示談書が出て来た、内容は、小田急電鉄が治療費を一切持つというものだった。 その時、柳田という名前がその頃未だ小さかった成城という町で如何に強かったかを感じた。さしずめ今だったら、何千万と言う賠償金を請求されたに違いない。 病院といい、酒屋の若旦那といい、事故に遇った自転車を買った自転車屋は丁度踏み切りの先にあって、無償で修理して呉れるし、何せ小さなコミュニティーだったのである。 今から思えばきっとその時、祖父が偉い有名な人間だと知ったのだと思う。 それで、以来私がいけ好かない野郎になってしまったという事のつじつまも合う。

中学時代

私は自分からは、柳田國男の孫である事を滅多に言わない。 それでも、どう言う訳か知らない内に何処からとも無く判ってしまうものである。 中学に入学した時、或日担任の教師が近付いて来て、「君は柳田國男の孫なんだってな」と言うので、私は否定する訳にも行かず「はい、そうです」と答えた。 只それだけの事なのであり、会話がそれ以上続く訳でも無いのだ。 小学生の時、祖父の隠居所を訪ねた或日、丁度新しい東京書籍の国語の教科書が出来上がって来ていて、それを欲しがった私に祖母が、「学校に持って行って自慢しちゃ駄目よ」ときつく言った記憶があり、それが耳に焼き付いていたのかも知れない。

渡米

中学の二年生の時、父が交換研究生として米国に一年と少しの間行っていた事があり、末っ子の私を、留守を任された手伝いの人が、甘ったれだった私の面倒を看る事を拒否した為に、アメリカに連れて行かれた事がある。 連れて行かれたと言うのは、当時私は学園生活を満喫して居り、アメリカに一年居た為に、留年するのがいやだったのである。 その事を母に言うと、母は校長にその旨伝えてくれ、校長も快く承諾してくれたのである。 私の当時通っていた麻布学園は昔から一高に入れなかった生徒を受入れていたという事で評判の学校であり、その点は実に自由な良い学校であったと思う。  これは後で友人に聞いた話だが、その時も私が去った後に、担任の教師が国語の授業で、丁度祖父の「たんぽぽ」だったと思うが教科書の祖父の文を説明しながら、「アメリカに行った柳田は、この柳田國男の孫にあたる」と言ったそうである。 担任の教師も他の生徒に言えない位、私はこの事実に触れない様にしていたのである。 それから一年経って、両親はアメリカにもう少し滞在する事になり、私は単独で帰国する事になった。

復帰

帰国して、学校に報告に行くと、教頭が、「一年もアメリカに行っていたら一年遅れるのが当然だ」と私を又中二のクラスに戻してしまったのである。 今から考えれば教頭として当然の処置をした迄である。 教頭の厳しい処置に憤慨した私は、急いで当時マイアミの研究所に居た両親に手紙を書き、約束が違うとクレームを付けた処、その時も母が早速校長宛てに手紙を書いてくれ、その途端いとも簡単に中三に昇級したのである。 今で言えば帰国子女であるが、アメリカ帰りだけに英語だけは出来た、と言うよりも私に出来る科目は当時英語だけだったのである。 中学、高校の英語の教師の程度は実に低く、例えばレシートのスペルのPを抜かしたり、高校の教師でも、クライシスをクリシスと平気で読んだりする人はざらだったのである。 その度に私は指摘して反感を買った。 教師達は、皆同じ様にむきになってしまい、自分の間違いを認めようとしなかった。 私が前に座っている生徒に、「辞書見せてやんな」と言う迄、逆らって来るのである。 中には、「ウィークリーは柳田の担当だ」と言って、毎回私に読ませる、好意的な先生も居て「柳田、マネージャーの発音やって呉れ」と言って無邪気に喜ぶ先生も居た事には居たが、クリシスと言った新任の教師は、プライドを傷付けられたらしく、「柳田君は、毎回当てますから、良く勉強しておくように」と嫌みを言ったのである。 その時私は「光栄です、お蔭で勉強になります」と嫌みっぽく返した覚えがある。 私は、本当に生意気な嫌な生徒だったのである。

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