自伝

素晴らしい人と巡り会う

丁度その頃、私は龍土町のビルの五階のクラブLで面白い人に出会った。 私が一人でブランディーの水割りをを飲んでいると、途中から店に入って来たその人が、私の居た席の隣に座り、おもむろにカラオケを歌い出したのである。 それが又実に上手だったので、思わず私が、「お上手ですね」と声を掛けたのが始まりだった。 最初は気が付かなかったのだが、よく観察してみると、酒を飲んでいないみたいであり、「クラブに来て酒も飲まないで、変った人だな」と思い、その後結婚していると知れば、「家族も放たらかして、変な奴だなと」思っていたのだが、洋服のセンスも良く、物腰も柔らかく、普通のカラオケで欲求不満を解消する為にガナリ立てているそこいら辺のオジサンとは訳が違うと思い始め、私はその人に興味を持ち始め、やっとその時名刺を交換したのだ。 その人は、OH氏といって、ドイツの文房具会社の日本支社の社長をしている人で、私より二、三歳若くて、そこのママの知り合いのRという女性に一度連れて来られてからちょくちょく来る様になったという事もその時始めて判ったのである。 それからちょくちょく顔を合わせるようになり、私が、「そんなにお上手なら、私の知っている生バンドで歌える所を御紹介しますよ」と誘ってみたのである。 それから私の知っていたフィリピーナの歌手がその頃歌っていたフィリピンクラブを皮切りに、その歌手が店がはねてから別の店で歌っていればそこに二人で行き、どんどん二人の行動範囲は拡がって行ったのである。

或日そのフィリピンクラブの一階下にあった、以前リバプールのサーカスに居たJがホステスをしていたWという店でマネージャーをしていたNが三たび移った、Cというインターナショナル・クラブでいつもの様に二人でカラオケを楽しんでいた時、私がそこに居たAというフィリピン系カナダ人の女の子の扱いが悪いと、OH氏に付いていたスコットランド人のボディーピアスを沢山身に着けた女の子が文句を付けて来た事があって、店がはねてからそのJという女の子と三人で道を歩いていた時もそのJが私に、「貴方は女性に対するリスペクトが足りない」と、酔いも手伝ってしつこく私に言って来たので、そんな事を言われる筋合いは一つも無いと思って頭に来た私が、Jに向かって、「そんな事は百も承知だ、お前の講釈なんか聞きたくもない」と、Jに怒鳴ってしまったのである。 その時横で聞いていたOH氏は、そのJの事をまんざらでも無いと思っていたらしく、私が彼女の言った事を理解していないと勘違いして、私に説明して呉れ様としたので、OH氏がJ側に立ったと思った私は、「そんな事あんたに言われなくたって解っている、英語なら俺の方があんたより得意だ」と怒鳴ってしまったのだ。 それで済めば良かったのだが、悪い事にOH氏がその日に限って現金の持ち合わせが少なく、私が彼に一万円貸していたので、「人に金を借りておいて、偉そうな事を言うな」、と又怒鳴ってしまったのである。 その時の私剣幕にOH氏も困ってしまい、「住所を教えてくれれば、後で送るよ」と言ったので、段々冷静に戻って来た私は、「そう言えばこの人は酒を飲んでいないのだ、きっと俺の方が間違っているに違いない」という事が頭をよぎり、私が彼に詫びをいれて、間一髪で折角巡り会った良い友達を失わないで済んだのである。

その時以降は私もOH氏の人となりが判って来たので、成るべく干渉し合わない様にお互いに心掛けて来た。 OH氏がいつも車だったので、いつの間にか私も毎日車で六本木に行く様になって行った。 彼が飲まないので私も一時真似をしてみたのだが、それが意外と良くて、次の日も酒が身体に残らないし車を運転するにも好都合だった。 私がブランディーグラスにウーロン茶に氷を入れて飲んでいると誰もそうとは気付かずに、「そんながぶ飲みしちゃ身体に毒よ」とか言ったりして全然それが只のウーロン茶だという事に気が付かないのである。 それからも毎日の様にOH氏との六本木生活は続いた。 OH氏があっちの店にアメリカ人の歌手が入ったと言えば、そこに行き、あのクラブのキーボードに新しい人間が来たと聞けばそこに行くという感じで、そこで仲良くなった歌手が動く度に我々も動くという感じで、たまにはその歌手を連れて別のライブハウスに行ったり、広尾のインターナショナルカラオケクラブに皆で行って歌ったり一時は六本木を中心にしたソサエティーが存在するかの様に見えた時もあった。 その時出会ったCというアメリカ人の歌手の卵とは彼女が帰国してからもEメールのやり取りを毎日の様にする位仲良くなった。 Cは、彼女が通っていたマイアミの大学のキャンパスで見た日本の英会話学校の広告を見て応募して来たみたが、宿泊施設が埼玉にあり、毎日品川迄通わされたので、嫌になって辞めたと言っていた。 歌手になれなかった時はロースクールに入って弁護士になりたいと夢を語って呉れたりもした。 Cがいつも私に歌ってくれたセリーヌ・ディオンの「パワー・オブ・ラブ」は最高だった、「アイアム・ヨア・レイディー・アンド・ユウ・アー・マイ・マン」と私の事を見詰めながら歌われると、何か夢が全て実現したかの様な錯覚に陥ってしまった。 一時彼女が二子玉川のタイレストランで歌っていた時は家から近かったので、毎回送り迎えをし、その行き帰りに話すだけでも充分に思える位舞い上がってしまっていた。 帰ってからも毎日Eメールをくれた。 自分の携帯電話の留守電メッセージを自分で、「ユア・ソオ・ベイン」と入れて解約しないまま帰ってしまったので、彼女が帰国してしまった後も暫くはその電話に掛ければ彼女の声が聞けた。 後で、その電話の解約を頼まれた人間との交渉役をやらされた事もあった。 聞いてみたら残高が未だ二万円以上あって金を預かっていないので支払えなかったからそのままにしてあったとその人が言っていた。 郷里のバーモントで臨時教員のポストが空いていたので、学校で音楽を教えていると言って来た事もあった。 たまには男が出来たとも報告して来た。 冬休みにニューヨークにその男に会いに行くと書いてよこした時は、帰って来る迄旨く行っているか何だか心配になったりもした。 一度は航空会社の経理担当のポストに応募して残り三人に入ったと嬉しそうに書いてよこしたが、私のフォローが悪かったので気分を損ねたらしくメールが途絶えた事もあった。 私にはそんな我が儘な彼女の一面でも受入れたくなる位、私にとっての彼女は素晴らしい存在だった。 こちらがメールを送らないと、突然甘いメセージを送って来て、こちらがその気になると友達に戻ってしまうアメリカ的な駆け引きに疲れたので、友達は毎日やりとりしなくても友達だと書いて出したら、それ以来メールが来なくなったので寂しくなってこちらから近況を訊ねると、ロースクールに入る為に弁護士事務所で働き始めたと書いてよこした。 その時私は、さすが彼女だけあって着実に夢を実現しつつあるなと感じた。

私がOH氏に出会った頃は、未だ私が、盛んに色々なクラブに出入りしていた時期で、そこで働いているホステスを口説いちゃ又次の店で違う子を口説いたりしてという生活を送っていて、未だに行く先々の店で傍若無人に振る舞い、何か気に食わない事があると、テーブルをひっくり返したり、店の従業員に絡んだり、好き放題していた。  或日私がいつものようにOH氏と或クラブで飲んでいて、その前の日に、芋洗い坂の下に新しくオープンしたVという別のインターナショナルクラブで働いていたDIというフランス人の二十歳のホステスが、電話をして来て最後の日だから必ず来て呉れと言われていたのを、気になっていて、OH氏に三十分位したら迎えに来てくれる様に、頼んで私一人で十二時半を回った時にその店に寄った事があって、そのDIが私の着いたのが余りに遅かったので最初から拗ねていてその上三十分後にOH氏が私を迎えに来てしまったものだから、増々拗ねて、私の通り道を塞いでしまい、「今帰ったら、二度と私に会えなくなって、貴方は寂しい思いをするわよ」と、子供じみた事を恨みがましく言ったので、余りのDIのしつこさに堪り兼ねて、前にあったテーブルを膝で押し倒し通り道を作り、グラスが床に落ち壊れたのも放ぽり出して、DIが唖然とした顔をしていたのも無視しカウンターに行きそこに居た、マネージャーに、「お前の店のホステスの教育はどうなってんだ」と怒鳴り付け、私の剣幕にびっくりしたそのマネージャーも今日はこれだけで結構ですと幾らか引いて呉れ、その金額を支払ってから、憤然として店を出て来てしまった事があり、迎えに来てくれたOH氏にも呆れられてしまった。 そんなな時はいつも、そこで働いていたホステスに救われていた。 その頃ホステスは店から見せへと渡り歩いていて、皆知り合いになっていて、そのつてで又新たに新しい子が日本に来るというパターンを繰り返していたので、私が、一軒の店でトラブルを起こせば、次の日には皆にその事が知れ渡り、私が道を歩いていると、道端でちらしを配っているホステスが声を掛けて来て、その時も、「ヨギ、あんた夕べ暴れたんだってね」と言われた。 逆に店も、その子達からわたしの情報が入るので、他所の店で変な噂を立てられるのを気にしてか、私の事を持て余している感じさえあった。 それから数日経って、OH氏が私に、「あの店のオーナーのその筋の人、がたまたま僕の名刺を持っていて事務所に電話して来て、ヨギちゃんの事聞いて来たから庇っておいたよ」と脅かされてしまった。 その時は、「少し嘘臭いな」と感じ、聞き流したのだが、私も本当だったらまずいので、少し反省をし、前にトラブルを起こした龍土町のLも、あの時居たマスターのSがあの後ママとトラぶって辞めてボクシングの世界に戻った事も聞いていたので、OH氏がLに行った時に着いていって、ママに詫びを入れて私の無礼を許して貰い、再び復帰する事が出来た。  その後も一度、アメリカ人のCが働いていたクラブでも、そこに居た、自称ドイツ系フィリピン人の態度が余りにも挑戦的で悪く、Cには悪いとは思ったが、そこのマネージャーに、「この女を俺の席から外して呉れ」と言うと、そのホステスが、「私だってあんたの席になんて居たくないわよ」と言ったので、「頼みもしないのに俺の席に付きやがって、なんて事ぬかす女だ」と、その女の子を怒鳴り付け、席を蹴って帰ろうとすると、出された勘定が又、店のサービスの割に高くて、再び頭に来て、マネージャーに、「お前こんなサービスをしておいて、一銭も負けない積りか」と怒鳴って、負けさせた事もあった。 その私が怒鳴り付けた女の子には、その後Cを車で彼女のアパートに送って行った時、自転車で丁度戻って来て、何か言っていたが聞き取れなかった。 大分経ってから同じ子が、私が龍土町のクラブLに行った時、たまたまそこで面接を受けているのを見て、何処か見覚えがあったので、声を掛けたら、バツの悪そうな顔をしたので、やっと、「ああ、あの時の俺が怒鳴った女じゃないか」と思い出した。 面接の後で、Lのママが私に、「今の子知り合いなの、どんな子」と聞くので、私も返答に困ってしまい、「一寸プライドが高いので、客とトラブルが多いと聞いた事がある」と答えて、自分との事は言わなかった。 店を出ると今度は、階段でブーツの紐を締めていたその子とばったり会ってしまい、私が、「お前あの店に勤めたいのか」と聞くと、「あんたがいるから駄目みたいね」と諦め顔で言ったので、可愛そうになり、「俺が付いてりゃ絶対大丈夫だよ」と言っておいたが。結局採用されなかった。

そんな或日、或クラブで働いていたイギリス人のJという子とひょんな事から仲が良くなり、毎日の様に同伴したりして、彼女がその店でも指名が上の方になって、或時私に、「貴方とラブホテルに行きたい」と言ったので、新宿のラブホテルに連れて行って以来付き合っていたのだが、彼女がまるで、「ボーイフレンドは彼女の仕事に協力するのは当然」と言わんばかりの態度に私が腹を立ててその店に行くのを止めた途端Jがその店を首になってしまい、仕事が無くなって暇になってしまったのだ。 店を首になってからも暫くの間彼女はその店の所有していたマンションの一室に同僚とこっそり住んで居たのだが、その内それも店にばれてしまい、仕方が無いので、一時私のアパートに住まわせ半同棲みたいになってしまった。 Jの両親は離婚していて、自分は母親と一緒に住んで居たが小さい町が嫌でその頃付き合っていたドラッグの売人と同棲していたと言っていた、兄さんが一人居て、最初は車のセールスをしていると言っていたが、少ししてから、「実は兄さんが刑務所に入ったと母から手紙で知らせて来た」と悲しそうに話して呉れた。 勉強が出来なかったので、大学の検定試験にも落ちてしまい、一時はイギリス中の金持ちが集まる島のリゾート地に男からも逃げて、そこでアルバイトをしながら暮していたとも言っていた。 丁度その頃彼女のビザが切れそうになり、彼女が未だ日本に居たいと言うので、澁谷の出入国管理局の出張所に連れて行き、管理官と交渉して、私が身元保証すると勝手な事を言って、手続きを手伝ってやったりもした。 その当時は、彼女も一時落ち着いて少し真面目になって、日本語を教えて呉れと言ったりしたので、テキストを買い、日本語を教えたりもしてみたのだが長続きしなかった。 どうせ暇なら一緒にハワイでも行ってみるかと、行ったは良いのだが、着いた途端から喧嘩ばかりして、次の日レンタカーを借りて裏オアフの方にドライブに行った時にとうとう大喧嘩になって、怒った私が彼女の腹に蹴りを一発入れてしまい、その時彼女が私に、「人の見ていない所で、女性に暴力を振るうのは許せない」とか聞いた様な台詞を吐いて、「私はそこから一人で歩いて帰る」と言って何処かに消えてしまい、一時は私も心配になって車に戻ったのだが、彼女はホノルル迄は到底歩いては行けないと覚ったのか、ちゃっかりわざと私に見える所を歩いたりして、助手席で一言も口を聞かずにレンタカーの返却場所迄帰って来たのだが、私が返却手続きをしている間に、再び姿をくらましてしまい、今度は私も泊まっていたホテルが近かったので、私はレンタカー会社の送迎車に乗せて貰い、途中一人で道を歩いていた彼女を見付けても無視して、先にホテルに着くと、すぐに航空会社に電話して、二人の予定を変更して次の日のフライトを予約してしまった。 それを聞いた彼女は、「自分は未だハワイに居たいから金を置いて行け」だとかごちゃごちゃ御託を並べて居たのだが、私が、「お前一人で帰国したら日本の入管で引っ掛かって、二度と日本に来れなくなるぞ」、と脅かしたものだから、自分の置かれている立場をやっと理解して、突然急に大人しくなり、無事二人で帰国する事が出来た。 私達がその時泊まっていたホテルは、古巣の白木屋で紹介して貰って特別料金だったものだから、帰りに顔見知りのフロントの女の子が、「ミスター・ヤナギタ、未だ四日も予約が残っていますけど宜しいんですか」と嫌みっぽく言ったので、思わず、「日本にのっぴきならない用事が出来てしまって」と言い訳を言ってしまった。 その頃私は会社も旨く行かず、のっぴきならない用事等有る訳も無かったのである。  日本に帰って来てから、その頃六本木を追われたカナダ人のJが働いていた赤坂のクラブを紹介してやり、イギリス人のJもそこで働ける事になり、私にマンションからもお引き取り頂いた。 その後はイギリス人お決まりのコースでJはタイに行き、そこから可愛らしく絵葉書やファックスを呉れ、私にもう一度呼び戻して欲しそうな感じであったが、指定の日時に連絡を入れなかったので、私の気持を察したのか、それ以来彼女からの連絡は途絶えた。 その時以来私は女性に懲りて、丁度肉体的にも衰えを感じていた事も手伝って、女性とは深く関わらない事決めたのである。

或日いつもの様にOH氏と二人で一通りの店を回って、駐車場に一緒に帰り、少し立ち話をしていると、彼の胸元に銀のペンダントが見えた。 最初は船の舵輪かと思ったが、良く見ると法輪だと判り訪ねると、「良く判ったね」と言ったので初めて彼が或宗教団体に属している事が判ったのである。 それは密教系の団体で私の知人にも何人か信者が居て、私もその人達がその法輪のマークをいつも身に着けていたので、知っていたのである。 OH氏は自分の事は余り自分から話すタイプではないし、私も自分から根掘り葉掘り聞くタイプでないので、私は未だに彼がどんな経歴の持ち主か知らないのだが、一度、先祖は織田信長か誰かの家臣であるという様な事を聞いた覚えがあり、家族は彼以外はクリスチャンだとも伺った事がある。 私と同じ年に生れたお兄さんが、十八の時心臓病で亡くなられたので、私と話しているとお兄さんの事を思い出すらしく、「兄さんにはデートの仕方迄僕が教えてやっていたんだ、今のヨギちゃんと一緒だな」と笑いながら言っていた事もあった。 その頃も私は飲みに行くクラブで働いていた女の子にすぐに惚れてしまい、OH氏の前で醜態ばかり演じていた毎日だったのである。 一緒にクラブにいる時はOH氏はカラオケ一本で、私はどちらかと言うと、女性専門だったし、OH氏の歌が余りにも上手すぎて、私の歌が霞んでしまう位だったので、私は彼と一緒にいる時は段々聴くだけになっていたのだ。 そんな訳で、夜は難しい話をする事は一切無く、何か話したい時は昼間彼の携帯電話に掛けて、聞いて貰ったりしていた。 私が家に居て考え事をしていて、その時何か自分の事に気が付くと必ず彼に電話して報告していたのだが、かれはいつも一言、「今度はそれを見詰めましょう」と言うだけだった。 私もその頃からOH氏の影響を受けて、私が自分では、「理念と実践の一致」と表現していたのも、「心身一如」と表現を変えた位である。 その当時私は龍土町のビルの五階のクラブLで見付けたEというイギリス人に恋をしていて、彼女がゲイの男としか付き合わないので、悩んでいたら、OH氏に、「ヨギちゃんもゲイにならなくちゃ駄目だね」と言われてしまった事もあった。 その子の父親はイタリア人とアルジェリア人の混血だったがイギリス人の母親が結婚しなかったので、自分は母親に育てられたと言っていた。 ロスアンジェルスで音楽関係のコラムを雑誌に書いていた事もあると言っていた。 私が彼女に私の開いていたルネサンスのホームページの話をした時に、彼女が興味を示して、ルース・ベネディクトの『菊と刀』を読みたがったので、たまたま持っていた英語版を上げたりもした。 Eが一度国に帰ってから、私に電話をよこし日本に何度も出たり入ったりしていて、一度入管で捕まっているので、私のプロジェクトに参加するという内容の架空の招聘状を書いて呉れと頼まれたので、書いてファックスして上げて、再びEも日本に来た事には来たのだが、その後の彼女の態度がはっきりしなかったので、私も面倒になり、自分から電話をしない様にしていたら、ビザの切れそうになった頃しきりに電話をよこして、「私達だってたまには会わなくちゃ」と、こちらかの申し出を誘おうとする、西洋人特有の言い回しで言ったので、私も今度だけは受け入れまいと思い、「その手は桑名の焼き蛤」と、「俺は暇だからいつだっていいよ、いつでも時間がある時に電話してくれよ」ととぼけていたら、その内に電話もして来なくなってしまった。 その子も、私のMGを運転させると良く似合った。

その内にOH氏がその宗教団体の学校の試験を受けると言い出し、見事合格してからは、私の言葉にも細かく反応し私が少しでもてらいを含んだ言い回しをしたりするとあからさまに嫌がったりして、私には少しこだわり過ぎの感じで、一時は正直言って、「参ったな」と思った事もあった。 その頃はたまにOH氏も修行に興味を示していた私に、「ヨギちゃんだったら、そのままでかなり上にゆけるよ、ひょっとしたら自分より先に進んでいるのかも知れない」と言ったりして、暗に入信をほのめかしているのかなと思った事もあり、私はその頃も今も、クリスチャンと仏教は本来的には競合するものでは無い、と考えているので、その事には別に抵抗は無かったのだが、、今更カトリックを捨てる気も無かったし、何と言っても、基本的に全て自分で解決したかったのである。 その頃は私も既にたまにしか千葉の事務所に顔を出さない様になっていた。 この頃丁度マンション事件が起きてしまい、私の夢は完全に消え去ってしまったのである。 その時はOH氏の修行も、その学校に行き出してから進んでいるのが傍に居た私にも伝わって来ていて、私が電話で悩みを話していた時にOH氏が、「ヨギちゃんの悩み怒りはお祖父さんの悩み怒りなんじゃないか」と言ったのでOH氏にお願いして、祖父の戒名を彼の事務所にファックスして、特別回向をして貰った位私は落ち込んでしまっていた。 御布施を差し上げるのも何だったので、よく二人が待ち合わせた喫茶店で、御馳走させて貰う事にした。 当時OH氏と二人でよく行っていた知り合いのフィリピン人歌手のLという子が歌っていたクラブでホステスをしていた同じフィリピン人のCと仲が良かったので、一時は真剣に彼女とフィリピンに住もうと考えた事もあった。 その時は彼女は既に日本を転々とした後で、そろそろ帰ってビジネスでも始めようかと考えていて、私も一緒に何か出来るかな、と考えたりもして、年齢的にも彼女は三十を越していたし、私もそろそろ潮時かなと思っていた時だったので、丁度良いかなとも思ったのだが、Cはその時既に、日本人の男の言う事を信用出来なくなっていて、私がそんなに迄落ち込んでいて、真剣に日本から逃げようと考えている事等想像も付かなかったのである。 五十過ぎれば五万ドル信託銀行に半年間預けるだけで永住ビザも取れるという事がその時判った。 一年二百万もあれば暮して行けるというのも魅力だった。 銀高金利も十パーセントで、二千万円貯金すれば、何もしないでも暮して行ける計算である。 でもフィリピンで何をして暮したら良いのだけが判らなかった。 仲の良かったフィリピン人歌手のDにその話をすると、日本に来ているフィリピーナはろくなのが居ないから自分が探してやると言っていた。  その頃から私もそんな生活に疲れ果ててしまい、段々六本木から足が遠ざかってしまい、それにつれてOH氏と会う機会もめっきり減ってしまった。 全ての道を塞がれてしまった私は、もうこれ以上自分自身を偽って暮す事が出来なくなってしまった。  思えばOH氏には色々な事を覚るチャンスを与えて貰った。 あの一見冷たい迄に見える無関心さで、他人の行動にに干渉せず、個人主義に徹しているかに見える人間が、限り無い思いやりと広い心で、相手が自分で気がつく迄、じっと傍で見守っていて呉れるOH氏の宇宙の中で、私は最初はそれに気付かず、悪あがきをし、もがき苦しんで見せて、それはまるで仏の掌で遊ばされているちっぽけな一人の人間の様だったのである。 私はそこから垂れている蜘蛛の糸に必死でぶら下がり、放って置くのが一番の愛情かも知れないという事に気付かされ、いつも分った様な事ばかり言って来た自分を恥じたものだった。 一時は祖父の縁りの地、龍土町に居を構え、そこに祖父のブロンズを寄付したい夢を抱いていた事もあった自分が、祖父が若かりし頃歌を詠んでいたその場所で、カラオケにうち興じていた己の不遜を恥じ我に返ったのである。 きっと、もがき苦しむ孫の姿を案じて、祖父がOH氏に託して呉れたのだろう。 その時は既に、「もう馬鹿らしいから六本木に行くのは止めよう」と二人が言い出してから早一年以上経過していた。 だがその時私は既に、OH氏に会わなくても、彼の修行の進み具合を遠くに離れて居て、たとえ彼と何も話さなくても、自分の肌で感じられる様になっていた。 これが、駐車場で見た、彼の胸元の法輪の効き目なのかも知れないとも感じたが、それでもそこには自分自身の手で心身一如を掴み取りたいと思っている自分が居たのである。

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