自伝

ハワイの生活

ハワイに赴任して最初にした事は社会保障番号を取得する事である。 この番号が無いと、自動車の免許を取得したりする、日常生活に支障を来たすという事で、割と厳格な面接を受けさせられ、ハワイに於いて厳格だと私が思ったのはこれだけだった。尤も、着いてすぐだったのでそう思ったのかも知れないが。 次にしたのは、銀行に預金口座を開く事だった。 会社が取り引きしていた日本の銀行とも取り引きの深かった或銀行に連れて行って貰い、そこで口座を開き、個人小切手帳を貰った。 続いて、車を買う事である、ハワイ狭しと言えどもそこはアメリカであり、車を持っていないと何かと不便である。 車と並行してアパート探しもした。 女房が後から来る前に住む場所を探しておくのが、会社のしきたりになっていた。 最初は総支配人の奥様も同行して呉れ、現地の日本人で、不動産業を営んでいる方が色々物件を案内して呉れた。 その時未だ建築されてからさほど経っていない綺麗なコンドミニアムに案内された。 多少狭い気がしたので、「狭いなあ」と呟いてしまい、総支配人の奥様から、「これは広いほうよ」と強い口調でたしなめられてしまい、「あっ、しまった」と思った。 ワン・ベッドルームが何故か狭く感じられ、つい口をついて出てしまったのだが、その時反感を買ってしまったのではないかと心配になった。 家賃は五百ドルだった、当時の日本円換算で十万円程度である。 立地も会社からかなり近い場所だったのでそれに決めた。 ハワイには兄も家族と一緒の時期に或旅行会社から出向になっていたので、その点は心強かった。 後から知ったのだが、ハワイのコンドミニアムは、米本土、例えばロサンジェルスと較べてもかなり小さく、売春婦をしている女の子でさえ、ロスに行けばトゥー・ベッドルームが普通だと言っていたのでかなり狭かったのだろう。

その内に車も手に入った。 アメリカの中古車屋の店員は海千山千の人間が多く、皆歩合制で事故車を平気で売ってしまう様な人間もざらに居た。 その頃日本からの輸入車は未だ値段が高く、当時一般的だったのは、フォード・グラナダである、同じ物をマーキュリー・モナークという名前でも出していて、日本車で言えば、サイズは格段に違うが、トヨタ・カローラとスプリンターという感じである。 当時ハワイに居た兄もグラナダに乗っていたが、運転が嫌いな兄は事務所迄歩いて行くか、兄嫁に、会社の前迄車で送って貰って通っていた。 その時一緒に赴任したHYはグラナダを選んで賢明だったが、私は外観に惹かれてダッジにしてしまったのが失敗だった。 買ってからすぐにイグニッションのアッセンブリーが壊れてしまったのである。 その頃から車の電気系統はコンンピューター制御になって来ていて。一度壊れるとアッセンブリーごと交換する様になって来ていた。 店のあったショッピングセンターのすぐ近所の、ダッジを扱っていたクライスラーのディーラーに駆け込んで、引き取りに来て貰い、修理する事になったのは良いのだが、そこで働いていた日系人のKというのが、自分に百五十ドルの小切手を切れと言ったのである。 私は、まさか正規の自動車ディーラーで働いているそれも日系人が、日本人を騙さないだろうと思ってしまい、Kに言われるままに小切手を渡してしまったのである。 これが、私が初めてハワイに来てから自分一人で小切手を切った苦い経験になってしまった。 後でそこの事務所に入ってから、書類にサインしたりしている内に私は騙されている事に気付き、工場に戻りKに掛合ったが、取り合って貰えず勿論小切手も返して呉れる訳も無く、私は一度アパートに戻り、日本からお土産にと持って行ってあった、カード型の計算機を持って折り返し工場に戻り、事務所に居たフォアマンにKのした事を訴えたのである。 事情を聞いたフォアマンはその場で金を返してくれた、喜んだ私が持って行った計算機をそのフォアマンに上げたのは言う迄も無い。 その後修理が済んで車を引き取りに行った際、件のフォアマンがKはあの後すぐに首にしたと言ったので、それから暫くの間私はKに復讐されるのでは無いかと思って心配だった。 これが私がハワイに着いて一週間目に起った事件であった。

最初の数カ月は売場研修をやらされ、主な売場を少しずつ経験した、 最初に回された雑貨売場で私がカウンターに立って居た時、一人の日系の男のパートタイマーが私に、「一人だけ良い格好をするんじゃない」と文句を付けて来た。 その理由は、私の接客が過剰だというもので、私が余りお客に親切にすると自分の評価が下がるというものだった。 その時私は日本から出向で来た人間が、現地の日系人に必ずしも良く思われていない事を肌で感じた。 研修が済むと新しくオープンする予定になっていた店の開店準備室を本店の家具売場の裏に開設した。 準備室とは言っても、メンバーは、新しい店の店長に任命された、当時本店のオーディオ・カメラ売場のマネージャーをしていたH氏と新店のオーディオ・カメラ売場と玩具文房具売場のマネージャー兼務を命ぜられた副店長の私と、後一人新店の食品売場のアシスタント・マネージャーに任命されたHOの三人だけであった。 このH氏が、店長と言っても、一日中ぶらぶら手持ち無沙汰に歩き回っているだけで何もしないので、苛々していた私が問いただすと、「私のする事は店長業務です」としゃあしゃあとして言ったので、「こいつ馬鹿じゃないか」と思った私は、カッとなって、「店も未だ開いていない時にどうやって店長するんだ、面白いからそこで店長やってみな」と怒鳴ってしまったのである。 その時私は、「これじゃ先が思いやられるぜ」と感じたのである。 もう一方のHOは変った経歴の持ち主で、父親は旭川の熊彫り職人で、たまたま白木屋で旭川物産展が開かれた時に父親に着いて来てそのままハワイに居着いたという変わり種で、私と同い年で、当時は未だ独身で毎晩飲み歩いていて、朝定刻に出勤した試しがなかったので、私が、「馬鹿野郎、サラリーマンというものは、飲んだ翌日程早く出勤するのが常識だ」と怒鳴ると、妙に納得してしまい、それ以来仲の良い友達になる事が出来た。 最初の頃はHOと帰りがけに、若い店員を誘ってボウリングに行ったりして、ボウリングが済んだあとで、そこの駐車場で皆で缶ビールを飲むのが楽しみだった事もあった。 その内に女房が日本から来たのでその楽しみは無くなったが、新しい店がオープンしてからは、郊外にあったその店の帰りにハイウェイを二人でつるんで猛スピードで飛ばし、前を新車のリンカーンをゆっくり走らせている臆病な店長を見付ける度に二台で挟んで虐めるのが楽しみだった事もあった。  新しい店の工事も着々と進み、ロサンジェルスの有名な設計事務所に依頼した、当時では画期的な顧客動線の売場が出来上がりつつあった。 完成が間近に迫った或日、未だ工事中のフロアーで新店の店員が全員集まり、ミーティングをした時、私が、その時煙草を吸って居た数人の若い男女に向って、「煙草は休憩時間に決められた場所だけで吸って呉れる様に」と言うと、全員従ったが皆一応に、「厳しい事を言う奴だな」という目付きで私を見たので、私は先ず売場の常識を教える事からスタートしなければならなかったのである。 今から思えば私の常識は日本の常識であり、ハワイでは通用しなかったのである。

店のオープニングは本店から皆応援に来てくれ、その日は女性も皆ムームーを着て、如何にもハワイの店のオープニングという感じで、私も久々に楽しい気分になれた。 然し次の日からが大変だった。 私の担当させれた玩具文房具売場は有能なベテランの女の子が居たので何とかなったが、オーディオ・カメラ売場はひどい状況だった。 オーディオ製品売場は未だ良かったのだが、カメラ売場の方の商品が揃っていなかったのである。 元々日本のデパートでは、こういった類いの専門知識を要する売場は、消化品番と言って、社員は何もせず、販売は問屋任せにしているのが普通なので、私もその時は本当に困ってしまった。 私の持ち場で、只一つまともに開店出来たのは完全問屋任せのレコード売場だけだった。 準備室に居た時から、馬鹿な店長に再三に亘って言っていたにも拘わらず、彼は日本の実家が電気屋だった関係で当時もかなりのオーディオマニアだったものだから、新店にしつらえた彼がデザインしたという、まるでテレビ局のモニターの様な壁一面のビデオディスプレイを来る人来る人に自慢ばかりして、彼の所謂店長業務に忙しくて、実務をしていなかったものだから、自分の不得手なカメラの事はすっかり現地の人間任せにしていて、自分は何もしていなかったという事がオープンしてから判明したのである。 店長は空とぼけて私を避ける様に逃げ回るわ、写真の現像屋が二軒も来て契約を迫るわで、私も一時はどうなる事になってしまうのやら全く予想の出来ない状況に置かれてしまった。 その時は未だカメラの担当者が決まっておらず、開店してからやっと一人の人間が見付かったので助かったが、その人間がいなかったら、私は即日首になる様な大事であった。 オーディオ製品売場は店長の趣味で設計したものだから、店の規模に較べてだだっ広くてディスプレイの他に在庫を一点ずつ持っただけで年間一回転しないという状況で、或日売り上げが悪いと総支配人にホテルであったパーティーの後で呼びつけられ、私がその事を訴えると、頭から湯気を出して私を怒鳴り付け、その時同席していた、ハワイに居る間中私を目の敵にして虐め続けた部長でさえ私に同情してくれたのである。その後少し経ってから、店長に昇格して舞い上がって居たH氏が、過労と売り上げが上がらない心労とで持病の心臓発作を起こし倒れてしまい入院するという事件が起り、私は増々忙しくなってしまった。 私が病院に見舞いに行くと、枕元に座った私の手を握りながら、今にも死にそうな声で、「柳田君、僕はもう駄目だから後は宜しく頼むよ」と言ったので、私はその時自分が彼を責めてしまった事を思い出し少しだけ罪の意識を感じた。

売場はもっと悲惨だった、店にはストック・ボーイというのが居て、大きな商品が売れると倉庫から運んで来たり、商品の配送をしたりする役目で、日本で言えば商品管理部なのだが、中には質の悪いのが居て、裏から友達と示し合わせて商品を運び出してしまったり、店員の中にも悪いのが居て、売場に来た友達に只でラジカセを上げてしまったりして平気な顔をしている、無法地帯と化していて、その上ハワイは島中皆お知り合いみたいなところがあって、問い詰めてもお互い庇い合って白状しない、下手に証拠も無いのに疑ったりしよう物なら、そこはアメリカで、訴えられかねないし、一度フィリピン人のハーフの男で展示用のステレオで自宅から持って来たカセットの音楽をボリューム一杯にして、その前で踊ってばかりいる奴がいて余りにも勤務態度が悪いので首にしたら逆恨みされて、会社に嫌がらせの電話はされるし、休みの日に他のショッピングセンターで偶然合ってしまったりすると、大きな声で罵倒され大変な目に合った事もあった。 その頃丁度店の社員の弟が隣のデパートでマネージャーをしていて、首にした人間に逆恨みされて、車にピストルを打ち込まれる事件があって、私も恐ろしくて、出勤する時はわざわざ自分の車を遠くに駐車したりして大変だった。 或日車を駐車場でバックさせていた時に、隣のデパートのガードマンの車に一寸ぶつけてしまったら、その黒人のガードマンが車から降りて来て、絡まれて金を要求されてしまった事もあり、たまたまそこに自分の店のサモア人のセキュリティーの男が居たので危うくセーフという事もあった。

お客さんはお客さんで、一寸でも気に入らないとすぐ、消費者センターみたいな所に訴えるし、訴えられるとその消費者センターから、十日以内に事の顛末を報告しろと連絡が入り、言い訳を一生懸命考えたりして、お陰で英語のお勉強にはなった。 一度はカメラのストラップの件で苦情を受け、その時未だ日本に居た女房に頼んでメーカーから自前で買ってハワイに送って貰い、それを只でお客さんに上げた事もあった。 そのお客さんも只言ってみただけだったのか、ことの外喜んで呉れて逆に却って感謝されたりして、複雑な気持にさせられた。 店長が心臓発作で倒れて以来、私が代行を務めなければならず、他の売場の苦情もこなさなければならなかったので、色々な苦情を受ける事になった。 ある日の事、年配の風体賎しからぬ白人の紳士が或売場に来て、旅行用のカートを交換して欲しいと言って来た事があった。 そこの女性のマネージャーが私の所に来て自分の手には負えないと言うので、私が応対する事になり、品物を見ると、それが、まるで世界旅行に行って帰って来たのではないかと思わせる程傷だらけのひしゃげたカートだったので、私が、「お客様申し訳ないのですが、これだけ御使用になられた後では、当店と致しましてもお引き取りする訳には参りません」と丁重にお断りすると、その白人の老人が急に態度を豹変させ、最初から取り替える積りで保管しておいたのか、別に持参した商品のラベル取り出して、それを指差しながら、「ここに、ライフタイム・ギャランティーと書いてあるじゃないか、お前の店は虚偽表示の商品を売るのか」と言ったのである。 私がそれでも食い下がって、「これは商品が丈夫であるという意味で、こんなに乱暴にお使いになられても現に未だお使いになれるじゃありませんか」と切り返した途端、その老紳士がいきり立って、「俺を誰だと思っている」と名刺を出したので見ると、そこには高級住宅地の住所と弁護士の肩書きの名前が記されていて、その人が身分賎しからぬ人物だという事迄は判ったのだが、次がいけなかった。 その弁護士と思しき老紳士が続けて、「お前ら日本人は誰のお陰でアメリカで商売出来ると思っているんだ」と増々声を張り上げて言ったのである。 私も未だその頃は、アメリカ人の風体から人格迄は見抜けなかったのである。 そんなこんなで、最初の内は現地の商慣習に慣れる迄は本当に大変だった。

私が赴任して間もなく、ショッピングセンターのすぐ近くにあった、日本食屋で一人で食事をしてた時、店に出入りしていた漬物屋のYという男が目付きの鋭い若い男と一緒に食事をしているのに出会い、その若い方の男と目が合った時、お互いにお主何者かという顔で一瞬火花が散り、Yが私に気が付いて、「これ僕の弟です」と言ったのでびっくりして、「お前の弟相当悪そうな顔をしてるな」と言ってしまい、後から少年院上がりだと聞いて、道理でと思った事があった。 兄さんの方は、私が貿易に居る時代から良く知っている、人の好さそうな人間で、私はその時初めて、彼がヤクザから足を洗って更生しようとする人間を自分の会社で面倒を看て社会復帰させている事を知ったのである。 そんな訳で、彼が物産展の時等に日本から連れて来る人間の中には、たまに小指の無い人間が混じっていた事もあった。 その時以来そのKという弟が私の事をお兄ちゃんと呼び慕って来る様になり、二人でよく一緒に遊び始めたのである。 一度はKと夜中ワイキキを歩いていて、いつもの様にストリートガールに声を掛けられ、Kが買いたいと言うので、相手の女が一人二百ドルと言うのを私が値切って三十ドルにさせて、場所が無いので、彼女のアパートの部屋で二人で並んで事に及んだ事もあった。 その時毛虱をうつされてしまい、それを私が女房にうつし、女房と二人で水銀軟膏を塗ったりして大騒ぎをしてしまった事もあった。 二人で一緒によく飲みにも行ったりもした。 ハワイの飲屋は日本人の経営するクラブだと、会社の偉い連中も来るので、私ら下っ端は大抵韓国クラブだとかベトナム人のクラブだとか会社の連中が来そうも無い店に行っていたのである。 一度、日本人のクラブで飲んでいた時、そこのホステスが、私が彼女に何かを言った時に、「そんな事を言うと部長に言い付けちゃうから」と言ったので、「うるせえな、二言目には部長、部長て言いやがって」と、私が言った次の日の朝、その部長に呼ばれ、「お前夕べ俺の事何か言ってたそうだな」と言われ、散々な目にあって以来、私も自分からは日本人のクラブには行かない事にした。 或時Kと私がよく行く韓国クラブで飲んでいると、そこに店のベーカリーの日本から来ていた責任者が顔を出した事があって、たまたま担当の女の子が一緒だという事が判り、それもその女の子が両方の男と関係がある事迄が雰囲気で判ってしまい、両方の男と友達だった私が教えたのかとその女の子に疑われてしまい、その子から顔に唾を掛けられてしまったのである。 その時私は、「俺はお前の商売の邪魔をする様な人間じゃない」と必死に説明し、やっとの事で許して貰えた事もあった。

私の兄が一足先に日本に帰った時に、私ら夫婦の為に時分達の乗っていた件のフォード・グラナダを置いて行って呉れた事があった。 或日私が別の韓国クラブで飲んでいると、席に付いたホステスが、「日本人は信用出来ない」と言ったので、私が理由を聞くと、「或人が日本に帰る時、私に車をくれると約束したのに、その人の弟がハワイに来たもんでその弟に上げちゃったのよ」と言ったので、「ああ、これが兄貴の担当の女の子だったんだ」と、改めて島の狭さを感じさせられたのである。 その上、そのホステスは、東急百貨店の社長の担当でもあった事を私はその時既に知っていたのである。 その子はその後、私がハワイアン・リージェント・ホテルのワイキキ店に移ってからも、社長の部屋を訪ねようとし、セキュリティーに捕まって問題を起こした事もあり、私が日本に戻ってからも、社長を追い掛けて日本に来てしまい話題になった事もあった。

兄が日本に帰ってしまった頃、私は急速に或売場の女の子と接近して、やがて付き合う様になって行った。 その女の子とは私が未だ本店で研修を受けてた頃に仲良くなり、一緒にお茶を飲んだりしていて、パールリッジ店のオープンの時には既にお互いに惹かれ合っていたので、後は堰が崩れる様に進展して行ったのである。 その女性は、Mと言って九州出身の日本人で母親がハワイの人間と結婚したか何かで、大きくなってからハワイに移住したと言っていた。 その頃の私は、家に帰っても英語の出来ない女房の面倒を見なくてはならず、会社でも直属の上司から虐められていたので、神経が参っていて、心の隙間に入り込まれてしまった感じで、最初は軽い気持であったが、その場所に慣れない人間にとっては、現地の女性が居ると何かと面倒を看て呉れ、どうしても楽な方へ惹かれてしまったのである。 その内私はMのアパートに入り浸る様になってしまい、そこの前を通って通って居た同じ会社の人間に見られてしまい、その人に告げ口され、その、私を事ある毎に虐めていた上司の知る所となってしまった。

そんな或日私の行動に不審を抱いた女房が、私をMのアパート迄車で付けて来て、彼女と私が一緒に居る所に乗り込んで来た事があり、その後女房がMと直接会って話し、彼女に、「貴女がそんなに家の主人の事が好きなら上げるから勝手にしなさい」と言ったらしく、Mは、「あっそうですか、それでは」と、女同志で勝手に相談し私は女房にトレードされてしまい、それからは家庭内離婚の状態になってしまったのである。 その頃一度女房が日本に帰国する事になり、私が独りの時Mを家に泊めた事があり、戻って来た女房が、家の中の微妙な物の位置から女の直感で、私が私がMを家に迄入れたと激怒して、それ迄住んでいたコンドミニアムを引き払い、その時私が居たワイキキ店に近いダイアモンドヘッドの傍にあったテラス・ハウスに急遽引っ越す事になってしまった。 私はその時、女房が家にあった私の結婚指輪をペンチで切ってしまった事を知らされ、クリスチャンだった私には、教会で祝福して貰った指輪をペンチで切る事等考えも及ばなかったので、「ああ、これはもう駄目かな」と、根本的な考え方の違いを感じたのである。  そのテラス・ハウスには、会社の人間がよく使っていた日本人の経営するクラブの、私と一緒にワイメア渓谷という観地に出掛け、マリファナを吸ったりする程仲の良かった日本人と韓国人のハーフのホステス姉妹の妹の方が済んでいて、そのホステスは私の友達から段々女房の友達になってしまい、不思議な人間関係が出来上がってしまい、その時には丁度兄が置いて行って呉れた車もあり、女房はその車を運転し好きな時に出掛け好きな人に会い、私は自分の車で会社に通い帰りにMのアパートに通うという別行動の日々が始まった訳である。 或時会社の集まりが郊外の和食料亭で会った時も、私達は別の車で行き、別の車で別の方向に帰った事があった。 次の朝、私が前の晩に着て行った正装用にしていた麻の白いズボンを普段会社で着ていた物に着替えようと家に帰ると、丁度その日家の鍵を持って出て居なかった私は、鍵が締まっていて家に入れなかったのだ。 私はその時庭に生えていた竹を切り、それを伸ばしてベランダの外に掛けてあったテラスの鉄の柵の鍵を取り家にやっとの事で家に入れた。 その時迄は女房が居ない等という事は考えてもみなかったのである。 少しして帰って来た女房は、家の中に居た私を見て、さすがに少し慌てたみたいで、「外国語クラスの若い子達と、朝迄パーティをやっていた」と、普段の彼女の行動パターンからは想像も出来ない様な下手な嘘を付いた。 その時私は既に、女房が何をしていようが気にならなくなっていたので、それ以上詮索せずに、「俺が浮気をしたからと言って、自分迄浮気をしてしまったら、俺の戻る場所が無くなり、却って逆効果だぞ」、「その上、お前が浮気をしてしまったら、俺の浮気を離婚要件に申し立てられなくなるぞ」と言ったのである。 すると、彼女はそれに初めて気が付いたのか泣き出してしまい、「O君の事の仕返しの積りなの」と、私が自分からは二度と口に出すまいと心に決めていた、彼女が学生時代に私と付き合っている時に恋をしてしまった男の名を、結婚してから初めて口に出したのだ。 指輪を切られた事に続いて、二度と耳にしたくない男の名前を聞かされ、私はその時に初めて離婚の決意を固めた。

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