自伝

犬にも負ける

自由が丘で店をしている時に一度犬を飼った事があった。 或日その時店を手伝ってくれていたYと、青山で開かれたアーティストのパーティーに参加した時その帰りがけに、そのパーティー会場と同じビルの二階にペットショップがあり、何の気無しに立ち寄った際、そこで売られていたアメリカン・コッカースパニエルのオスの幼犬がじっとこちらを見て、如何にも、「連れて帰ってよ」と訴えているように見えて、その瞬間、姉が、「ペットでも飼ってみたら」と言っていたのを突然思い出し、酔いも手伝って衝動的に予約してしまったのである。 中学の頃も、末っ子だった私は、弟分が欲しいと言って一度親に頼んで当時近所に新しく出来たペットショップで柴犬の子犬を買ってもらい、逆に犬に馬鹿にされて、それ以来犬にも辛く当り、世話も他の兄弟に押し付けてしまった苦い経験を持って居リ、その時はその事をすっかり忘れてしまっていたのである。 私の住んでいたマンションは契約時にペットは飼ってはいけないという条件にサインさせられた割には密かに飼っている人が何人も居たので、そのマンションを仲介したかつて自分も勤めていた不動産会社に電話して大屋に許可を取って貰う様に依頼し、大屋を説得して貰い、やっと許可も取る事が出来、めでたく私も愛犬家の仲間入りが出来た。

名前も、その頃私が凝っていたあの有名な『神曲』の作者、ダンテ・アリギエーリに因んで「ダンテ」と名付け、将来はもう一匹メスを飼ってそれにはダンテの恋人のベアトリーチェの愛称の、「ビーチェ」と付けようなんて夢の様な話をしていて、始めの内は、その店で買った移動用のケージに入れて家と店を往復させていたのだが、毎日場所が変ると両方の場所に慣れなくなってしまい、これでは躾も出来ないので、一度家に置いて店に行ってみたりもしたのだが、私が留守の間に鳴いて隣近所から苦情が出ても困るので、留守番電話のモニターで様子を伺ってみようと誰も居ない家に電話してみると、電話から聞こえた私の声に逆に興奮して鳴き立てたものだから、私も家に置いて店に出るのが可哀相になってしまた事も手伝って家に置いて店に出る計画は断念せざるを得なくなってしまった。 私とYが仲良くしていたりすると焼きもちをやいて間に割り込んで来たりして実に可愛い奴で、夜は独りにするとクンクン鳴いて私のベッドで寝せたりしていたのだが、躾にならないと別の部屋にしつらえた金網で囲った寝場所に帰すと又クンクン鳴いて今度は私が眠れなくなり、段々五月蝿くなって私が苛ついてしまい、再びベッドに戻してやったりしても、私の腹の上に顎を乗せて気持良さそうにしているのを見ると、私も、「可愛さ余って憎さ百倍」になり、手で払い除けたりする様になってしまい、悲しそうな表情で私の足下で上目遣いにこちらを見ていたりする様になってしまい、その内ダンテの方も反抗的になり、躾けるどころの騒ぎでは無くなってしまった。 ほとほと困り果てた私はその時、年子の兄にも相談してみたのだが、元々私の事を嫌っている兄は、「その衝動て奴がいけない」と批判的で、自分は犬を飼うとしても種類は決まっていて、コッカー・スパニエルには興味は一切無いとすげなく断られてしまった。 丁度その頃店によくいらして下さっていた近所の方が、家族でお見えになり、下の方の娘さんが、ダンテを見て欲しがられたので、私は渡りに舟とばかり、「宜しかったら差し上げますよ」と言ったのである。 奥様は少し迷惑そうな顔をなされていたのだが、やがて御主人の許可も下りその時ダンテは養子に出る事になったのである。 事情を察したダンテは悲しそうな顔になってしまい、一時は私も何かいけない事をしている様な気分にさせられたが、あの世話の大変さを考えれば背に腹は変えられないと、その家族に差し上げる事に決心を固めたのである。 T氏のお父上はお医者様で、T氏は厳しかった父親に反抗したのか、大学に行くのも断念し、その上弟さんが優秀で少しひねくれてしまっている様な所もあり、私と境遇が多少似ている所もあって、休日にはちょくちょく一人で店に顔を出して下さり、よく世間話をしたりして、私の書いた本を差し上げたりもしたのだが、その御家族は、お父さんが陽気に振る舞われていた割に、二人の娘さんがどことなく元気が無く、何か御事情でもあるのかなと私もその当時感じていたものだから、ダンテが養子に行って、御家族のコミュニケーションが良くなればと私が勝手に思っていた事もあり、私はダンテに、「お前は柳田家を代表して、T家の為に一生懸命頑張って来い」と言い含めて、何かダンテがその時納得してくれた様な感じになっていたのである。  結局ダンテが私と一緒に暮したのはたったの一週間だけだったが、私はその一週間にダンテから多くの事を教えられたのである。 ダンテはまるで全てを判っている様で私は恐れ、ダンテに全て見透かされてしまっている自分に気付き、これはダンテを通じて上の方から私にメッセージを与えてくれているのだと感じ、ダンテは私に自分を見詰め直す良い切っ掛けを与えてくれたと深く反省したのである。 私に一生懸命反抗するダンテの姿を思い出すと、ダンテがわざと私の真似をして私に自分のしている事を気付かせようとしていたのだと覚ったのである。 私はその時、ダンテの存在は実はダンテの為では無く、私の為だったという事を覚らされたのである。 私はその時程自分の弱さ、余裕の無さを思い知らされた事は無かった。 ダンテがT家に養子に行き、後になって血統書を差し上げてから、ダンテの両方の祖母がアメリカのチャンピオン犬だったという事が判って、T氏もことの外喜んで下さり、ダンテの散歩の途中で店に立ち寄って下さって、娘さんがダンテと一緒に居る時記者から取材を受け手雑誌に載る事になったとか、「人間と違い犬は血統が良いから」と言ったりして鼻高だかで、私の方もダンテが店に来ると店の中を駆け回り、私の足下に偉そうに座って、さも自分が私の子分だという感じに、新しい御主人のT氏も嫌がる位主張して、内心悪い気持ではなかった。 その後もT氏は、私とYの二人をクリスマスに家に招待して下さったり、店を閉じる迄交際は続いた。

イギリス人の女性にのめり込む

クラブと一概に言っても、しり上がりに読む若者が集まるクラブと尻下がりに読むサラリーマンが行くクラブでは趣が大分違って来る。 どちらも、主に異姓目当てで行く人が多いという点では共通している。 アーティストとの付き合いが増えて来た頃に私は初めてしり上がりのクラブに連れて行って貰った。 若者が物憂気な感じで煙草を燻らせていたり、独りでフロアーで踊っていたり、DJリズムを取りながらディスクを回していたり様々な光景を眼にする事が出来た。 そんな或日、店でルネサンス・クラブについて打ち合わせをしていた頃に、―これはクラブと言っても同好会の意味だが―、TY氏がある六本木の尻下がりの方のクラブのオーナーを紹介してくれると言って私を連れて行った事があった。

その日も私とTY氏が材木町のピッツエリアで打ち合わせをしてる最中に、議論になり、お口直しも兼ねてという事だったのかも知れないが、TY氏がそんなクラブを知っている事すら想像していなかったので多少興味も手伝って、着いて行ったのである。 それ迄どちらかと言うと、私は自分からはアジア系のクラブにしか行かなかったので、白人系インターナショナルクラブは行く事が少なかったのだが、そこは後者の方だった。 その時は只紹介を兼ねてという話だったし、先方が安くしてくれるに違いないと思って居たので長居はせず帰って来たのだが、その後もう一件回って、たまたま同じ所を通り掛かった時に、その前のクラブで我々の席に着いた女性が帰るところで、自転車を手で支えて一人の金髪の若い女性と立ち話をしていたのに出くわしたのだ。 その金髪の女性は泣いていて、その姿が余りにも可憐そうに見えて、思わず声を掛けて名前を聞いてしまう位、その時の私にはまるで妖精のように映ったのである。 その女性は、Dという名前で前の日に初めて日本に来て、未だ右も左も判らないで知り合いに相談していたところで、次の日から働く場所が決まったと言って、店の名前を書いたメモを私に手渡してくれ、私もその日はそのまま家に帰った。  その次の日、以前東急百貨店を紹介して上げた事のある、四国の老舗の若社長のHT氏が丁度東京に出て来て銀座で飲んでいて、私もお誘いを受け御一緒させて頂いていたのだが、前の晩に出会ったDの事が気になって仕方が無く、銀座の店がはねてから、HT氏がいつもの様にもう一軒行きましょうと言うのもお断りして、私の足は六本木のクラブへ急いでいたのである。 店に着くと、Dもまさか本当に来てくれるとは思わなかったと喜んで、二ヶ月前に彼と別れて日本に来たとか、自分は母親が十五歳の時に産んだ父無し子であり祖母に育てられて、だからお母さんとは友達みたいなんだとか、自分は小さい頃サーカスで象に乗っていてその頃日本にも来た事があるとか、身の上話しをしたりして話が弾み、私が、「出会った時はまるで妖精みたいに見えたと」話した時も、「私の姓はフェアリーっていうの」と彼女が言ったそんなほんの偶然の事でも凄く嬉しかった。 それから少しの間私はその子にのめり込んでしまった。  間もなく彼女の別れた彼氏から電話が来てオーストラリアで待ち合わせて一緒に一年間世界を旅して帰って来ると言って、自分の金髪を一本抜いて「パワーが出るからお守り代わりにして、私は何処に居ても貴方のガーディアン・エンジェルよ」と言って去って行ってしまったのである。 彼女は一生懸命引き止めた私に、「私は貴方を愛しているそれだけは判って、でも一緒に居られない、私には貴方の存在そのものが大切なのに、何故それ以上求めるの」、 彼女は続けて、「私が貴男を愛している証拠を見せる、これは寝ながら話したいから一度貴男の家に行く」と言った、その約束は遂に果されないままDは日本から消えてしまった。 最後にDが、「私の人生に影響を与えた人は、祖母、母、ダンスの先生、それと貴男」と言った時は、たとえ彼女が同じ台詞を他の男に言っていたとしても私はそれに気が付かなかっただろうし、その時の私には、たとえ私が騙されているのだとしても良い程だったのである。 真夏のそれもたった一ヶ月の戯れだったがその時は心も天に昇る気持だった。  それから一年が経過し、私も自由が丘の店を閉めてしまった或日、私が自宅でその頃付き合っていた、店を手伝って呉れていたYとくつろいで居た時、一本の電話が入った。 それは一年前に私の前から姿を消したDからの電話だった、私は興奮してYが嫌がるのも構わず彼女を家に送り届けて車を六本木に向けて走らせていた。 店に着いた私は再会の喜びを噛み締めていた。思い出話に時は過ぎて行った。 何も知らない私は、「一度俺の所に来ると言ったのはどうなってんだ」と笑って話していた。 それから何回か店に通ったが彼女は以前私が道でであった妖精みたいな彼女ではなくなっていた。 今回は前と状況が変っていた、彼女は一度別れた彼氏と一年間世界を旅してその間に彼と結婚して居たのである。 その事は、余りに彼女に熱中していた私を見て、私を可哀相に思ったのかやっかみ半分だったのか判らないが、彼女の同僚が教えてくれて私はその時初めて知ったのである。 それから暫くして彼女は六本木のインターナショナル・クラブの通う客なら知らない人は居ない位有名になって行った。 同時に私もインターナショナル・クラブのホステスなら私の事を知らない子は居ない位六本木に入り浸る様になって行った。 たまに他のクラブでもDの噂を耳にする事が増えた、彼女が同伴する姿もちょくちょく見掛ける様になった。 彼女は一月に十八回以上も同伴して月百万以上も稼ぐという噂や、その頃彼女の働いていたクラブが特別会員のシステムを作り、金さえ払えば女の子を勤務時間中も連れ出せ流様になって、Dがタクシーの中で客の一人に犯されそうになったとかいう話が実しやかに伝わって来たりもした。

そんな或日、私が自由が丘の店を閉めてから半年程後に開いた駒沢の事務所に居た時、一本の電話が入った。 相手は最初名前を名乗らないで、「Dという女性を知っていますか」と私に訊ねた。 私は、「ええ友達ですけど」と答えた。 「今彼女は何処に居て、何を為さっているか御存じですか」と更に聞いて来た。 「失礼ですけど、どちら様ですか」、何か不審に感じた私は電話の相手に訊ねた。 「私は、成田の入国管理局のSと申しますが、彼女の所持していた手帳の中に柳田さんの電話番号があったものですから掛けてみました」と電話の主は言った。 普通六本木で働いている外国の女性は入国する時は、手掛かりになりそうな、客の名刺とか電話帳は捨てて来るのが彼女達のあいだでは常識になっていたので、その時私は、彼女が未だ私を友達だと思っていてくれたと思い、その一言で急に彼女を庇ってやりたくなって、「彼女は一度帰って、日本語学校の入学許可を取ってから戻って来ると言ってましたよ、もう学校も決まっている筈ですけど」と答えた。 「それは大分先の話みたいですよ」と相手が言う。 煩くなった私が相手に、「彼女は友達だけど結婚しているし、私はそれ以上の事は知らない」とつっけんどんに答えた。 すると相手は態度を変え、「六本木あたりで働いているらしいんですけど、御存じ無いですか」とより具体的に聞いて来た。 その頃は、丁度当時首相をしていた、私の中学、高校、大学の大先輩に当る、橋本龍太郎氏がたまたま自宅にお帰りになる途中で芋洗い坂を車で通り、道に溢れていたビラ配りの外国人女性を見て取り締まる様に命じられたとかで、その鶴の一声で六本木中の至る所で取締の警官が見られた時期で、Dが空港で保護されていると感じた私は、「Dを捕まえたのか」と聞いてみたが、相手はその問いにはお茶を濁して答えなかったので、私は増々不信感を募らせ、「そんなに知りたかったら、成田に引っ込んで無いで、六本木に来て現状を見なさいよ」と、つい言ってしまったのだ。 その時私は、母に連れられて川越の画家の先生のお宅にお邪魔した時、近所の料亭で、先生から説教をされた嫌な思い出が頭をよぎり、その時も、赤坂で会ったフィリピーナと後でデートする事になっていて、家に電話を入れた時その子のお姉さんが電話に出て、「彼女は貴方とデートする為に美容院に行く途中で警察に捕まった」と言ったのを聞いて、わざわざ大手町の合同庁舎にある出入国管理局迄面会に行き、ヤクザのお兄さんに恐る恐る、「捕まった外国人は何処に行けば会えるのですか」と聞いて、一言、「知らねえよ」と言われ、やっとの思いで面会出来た時の事をまざまざと思い出していた。 その時、面会室の鉄格子の向うで、「貴方のせいじゃないよ、私は大丈夫だから心配しないで」と目に涙を溜めてしおらしくしていた一人のフィリピーナの女の子を思い出したのである。 私は電話をして来た男に、「フィリピーナを目の敵にしていたと思ったら、今度は白人虐めか、それもワーキング・ホリデイの無い国の子ばかり狙って」と、頭に来て過去の怒り迄もぶつけてしまったのである。 すると相手は、「柳田さんは六本木に詳しそうですね、ひょっとして夜の帝王ですか、もっと教えて下さいよ」と鎌を掛けて来たので、私は面倒臭くなって、「六本木の事はあんたの受け持ちじゃないんだから警察に任せて自分の仕事をしていろ、Dの件は可哀相だからイギリスに帰してやってくれ」と声を荒気てしまい、最後に、「俺は友達を売る様な野暮な男じゃ無い、もうこれ以上何も俺から聞き出そうとしても無理だから諦めな」と言って、やっと入管のS氏も諦めてくれた。 私はその事をすぐDの働いていた店のオーナーのKに電話し、女の子達にも気を付けるように言っておいた方が良いと伝えておいた。 その後も、Dが入管でブラック・スタンプを押されたという噂は暫くの間続いていたが、彼女の姿を見る事は無くなってしまったのである。 Dとの再会が切っ掛けで私もYと別れる羽目になってしまい、最初にTY氏が私を連れて行ったクラブもその頃一時盛んになって来ていて、私もちょくちょく顔を出す様になっていたのだが、その時期に警察の手入れを受け、責任者が外国人不法雇用で逮捕され閉店に追い込まれてしまった。

【総合目次】 【HOME PAGE】 inserted by FC2 system