自伝

アメリカの中学時代

初めて私がアメリカの土を踏んだのは、祖父が亡くなり四十九日が済んだ、私が中学二年生の時の秋だから、丁度私が十四になったばかりの頃で、未だ外貨持ち出しも制限されて居り、一ドルが三百六十円だった時代である。 飛行機も未だDC8で、確かホノルル迄はパンナムでそれから先はJALだったと思う。 隣の金髪の御婦人がネグリジェみたいな服に着替えていたのに驚かされた記憶が残っている。 パンナムはJALに比べてサービスも悪く、日本人には矢張りJALがいいと感じた。 あの頃は未だ日付変更線を越えた記念に、或いはJALだけのサービスだったのかも知れないし、正式な名称は忘れてしまったが、確か、日付変更線通過記念証とかいう物を発行していた時代である。 座席は日本の柄をあしらった西陣織り風の豪華な生地で出来ていて、同じ生地のパスポート入れを客に配っていて、至れり尽くせりの感じだった。 その頃JALのスチュワーデスは途中で和服に着替え、客に愛想を振りまいていて、父が喜んで熱心に写真を撮っていたのを覚えている。

その頃のホノルル空港は未だ空港ビルが無く、原っぱの真中にテーブルを出して通関手続きをするという様な感じだった。 草いきれがムッとするという感じの第一印象を受けた。 その時空港で出迎えて呉れたのが、丁度その頃ハワイ大学東西センターの招きでハワイに滞在していた、あの、民俗学研究所の解散の引き金となる重大な発言をした、文化人類学者の石田英一郎氏御夫妻である。 これは、民俗学に対する批判的な発言に対し、民俗学研究所の人間が誰も抗議しなかった事を祖父が悲観して、民俗学研究所の解散を決めたという有名な話である。 石田氏は祖父の長兄の孫娘と結婚し、言わば姻戚関係にあった。 当時は、海外渡航が未だ珍しい時代で、知り合いを頼りにするのが極普通だったと見え、私も行く先々で、私の知らない父の知り合いの世話になったのを覚えている。 或いは日本も未だその頃は、昔の大家族主義が残っていて、特に慣れない海外に行ったりするとお互いに助け合っていた古き良き時代だったのかも知れない。

ハワイでは未だその頃皆道を裸足で歩いている方が普通で、却って靴を履いている方が珍しいという時代であった。 私も父にビーチに連れて行って貰い、ビーチボーイから、当時は未だ長かったサーフボードで生れて初めてサーフィンの手ほどきを受けた記憶がある。 私は運動神経が発達していなかったので、ボードの上に立つ事も出来ず、只波に揉まれて海水パンツに砂が入り、じゃりじゃりした思い出だけが残った。 それ以後現在に至迄サーフィンはやった事が無い。

ハワイを出てから、父の知り合いの生物学者を訪ねる為、ロサンジェルス、サンタバーバラを周り、それからシカゴに行った。 シカゴには当時医者である母方の叔父が滞在していたので立ち寄ったのである。 シカゴは、私が最近柳田家のミッシング・リンクであると思い始めた、叔父であり、宗教学者の堀 一郎氏が滞在していた場所でもあり、私にとっては昔から親しみのある名前だった。 その叔父のお世話になった日系人の方ともお会いした記憶がある。

私達が最後に着いたのが、シカゴのあるイリノイ州の隣に位置するオハイオ州の、五大湖の一つエリー湖に面した工業都市のクリーヴランドという所で、現在でも、アメリカ人に言うと、「へええ」と馬鹿にしたりする位田舎である。  その頃のアメリカは未だ人種差別が残っていて、日本人がなかなか住めない地区もあった。 たまに医者をやってたりすると、受け入れられていたみたいで、そういう人はもう鼻高々であった。 幾つかの地区に別れていて、一番高級なのがシェイカー・ハイツ、二番目がクリーヴランド・ハイツ、ユニヴァーティー・ハイツと、順繰りに下がって行き、ハイツと付いていれば一応高級住宅地と言われていた。 リトルイタリーと呼ばれているイタリア人街やストリート番号で呼ばれている地区は少し低く見られ、ダウンタウンに近付く程下がってい行くのは他の都市と一緒である。  何年か前にイタリアで遇ったアメリカ人が、クリーヴランドから来たと言ったので、中学の頃一年間住んだ事があると言うと、「シェイカーハイツか」と聞いたので、「私の居た頃は未だ人種差別があって日本人はあそこにはなかなか住めなかったんだよ」と答えると彼はしゅんとなってしまい、「それは申し訳ない事を聞いた」と、神妙になってしまった事があった。 いくらアメリカ人でも、三十六、七年前の事を言われても、知らなくて当然のことかも知れない。 彼としては、冗談の積りで高級住宅地の名前を挙げただけだったのだが、却って可哀相な事をしてしまった。 面白いもので、上の住宅街に住んでいる人間程体格が良く、中学三年生位からつまり九年生位から、どんどん差が拡がっていっていたみたいであった。 今から考えれば、あれがいわゆるワスプと言われている人種だったのだろう。

私が最初に住んだのは、イースト何番地だか忘れてしまったが、低所得者層の住んでいた場所であった。 その時通っていた学校は、イタリア人街の真中にある、ホーリー・ロザリー・スクールというカトリックの教会で経営している学校だった。 一クラスに何学年も一緒に勉強していて、シスターが体育以外は全て一人でこなしている様な小さい学校である。よく映画等に出て来る寄宿学校みたいな雰囲気だった。 最初の頃は、便所に行けという合図も分らず戸惑った。 シスターは長い定規をいつも持っていて、怒ると生徒の手を机の上に出させ、その定規で叩いていた。 私も一度廊下に立たされた事があったが、未だにその原因は分らずじまいである。 そこには長くは居なかった。それは、シスターが私の母を如何にも開発途上国から来た人間みたいに扱ったからである。 母は、私をもう少し良い学校に入れる為に、父の事を招聘した教授に掛合って、市の教育委員会と交渉し、坂の上のクリーヴランド・ハイツのアパートに引っ越す手配をした。 面白いもので、こう書いていると良く理解出来るのだが、私の父は、日常の俗な事に関してはからきし駄目で、交渉事は全て母の役割だったのである。 母は、父が、マサチューセッツ州にある、ケープ・コッドの臨海実験所に夏に教授と一緒に行くと言えば、四十三歳という年令にもめげず、車の免許をとってしまい、自分の目がハンドルの下に来てしまいそうな位大きな五十六年型のフォード・ステーション・ワゴンを平気で運転してしまう様なタフな人間なのである。 その頃はアメリカでも未だフォード・ファルコンとか、シボレー・コルベアーとかのコンパクトカーが出たばかりで値段が高く、父がその当時向うで貰っていた給料ではなかなか買えなかったのである。

次に私の入った学校は、クリーヴランド・ハイツにあるロックスボロ・ジュニア・ハイスクールというパブリック・スクールである。 その学校は前のと違い、未だ新しく、近代的で典型的なアメリカの中学校だった。 私はそこでは本来は八年生に入るべき所、英語力が無いという理由で七年生に入れられてしまい、多少プライドは傷付いたが、自分は英語も出来ないので仕方なく諦めた。 ホーム・ルームの教師、所謂担任は器楽の先生で別に習っていた訳では無いので成績発表の時位しか関係無くて良かったが、神経質で意地悪で実に不愉快な人だった。 後の先生達は英語、つまり国語の教師を除いて大方良い先生ばかりだった。 授業は当然皆英語だった為に理解出来ず難儀した。只数学だけは数・を除き、アメリカは遅れているし、英語が出来なくても解ける問題ばかりだったので助かった。 その代わり、英語の教師にだけは嫌がられた。ヒステリーのオールド・ミスでどうしようもないと思った。 英語の出来ない私は、好きな女の子の背中をめがけて消しゴムをちぎって投げる事位しかする事が無く、先生に言い付けられてよく注意された。 いつもドイツ系の厳しい教頭がボートのオール形の板を片手に教室を巡回していて、悪い生徒の尻を叩いて回っていた。 幸いな事に私は特別扱いだったと見え、叩かれた事は無かった。

生徒達は大部分は良い人間ばかりだったが、中にはすれ違い様「ジャップ」と罵るのも居た。 その兄弟は私より遅れて転向して来たのだが、兄も弟も品が無く、他の生徒と比べても質が悪かった。 弟は、たまたま工作の時間が一緒で、私の作品を見て、「見せてくれ」と言われて、こちらが見せると、「テリブル」と一言言って去った。 私の作品も、確か皮のベルトに模様をパンチした物だったと思うが、お世辞にも誉められない、自分でもひどい出来だと思った位の物だから、仕方が無いだろう。 その生徒と後数人の悪だけが、中一のくせに、校庭の隅で煙草を吸っていた。 学校での只一つの楽しみは、食事時間と隣のロッカーのKという女の子が可愛いかった事だけである。 私が入学した時は、男子のロッカーに空きが無く私のだけ女子のロッカーと一緒だったのである。 これももしかしたら差別だったのかも知れないと言うのは、考え過ぎだろう。 今だったら、さしずめセクハラと思ったかも知れない。

食事は、ハンバーガーにピクルス、フライド・ポテトにトマトケチャップやマッシュ・ポテトにグレイビー・ソース、と言った、典型的なアメリカの食事だった。 それ以来、私はアメリカのカフェテリアが好きになってしまった。 前にいた学校では、皆サンドイッチを家で作って持って来ていたので、大違いで、まさにアメリカという感じであった。 一度面白い事があった。食事時間にそばかすだらけの金髪の女の子が寄って来て、一寸指で私を触って、「一寸触ってみたかったの」と言ったのである。 彼女には、余程日本人が珍しかったのだろう。 その学校には、黒人が一人、日系人が一人が居て、私を除いて後は白人ばかりだった。 これは、人種差別はしていないという事を意識的に表示していたのだと思われた。 最近の日本で言えば、女性の課長や部長をわざと一人ずつ置く様なものである。 町に日系人が居なかった訳では無い。 日本人の店も一軒あったし、日本食もどうやら食べられた。

学校には近所に住んでいた同級生と毎日時間を合わせて自転車で通った。 行き掛けのドーナツ屋でドーナツを頬張り、キャンディーを買って、ポケットにそのまま突っ込んで行くのが日課だった。 ある時、市の教育委員会から連絡が来て、イスラエル人の移民ばかり居た、ルーズベルト・ジュニア・ハイスクールという学校に移れと言われ、一時ヘブライ語を喋る連中の中に突っ込まれた事があった。 その時はさすがに難儀した。皆私を、「日本のプロッフェッサーの息子だ」と好意的に迎えてくれたのは良かったのだが、何せ英語の勉強にも何もなりやしなかった。

クリーヴランドの冬は雪が降って、非常にに寒かった。 私達親子が移ったアパートは「レイクビュー・アパートメンツ」という名のごとく、高台の端に湖の方角に向けて建てられた、れんが造りの四階建てか五階建てのビルだった。 前の道は「オーバールック・ロード」という位であるから、湖からの風が吹き付け、配達される牛乳も早く取り込まないと、寒さで瓶が割れてしまう程であった。 一度大事にしていた、小さい頃母からクリスマスに貰ったマフラーを何処かで落としてしまった事があったが、春になって道を歩いていた時、凍り付いた歩道に見覚えのある柄を見付け、掘り出して凄く喜んだのを覚えている。 最初の頃は英語が解らない為にヒステリックになり、家に帰ると大学で同じ様な苦労をしていた父親とよく衝突した。 特に私も父もお互いに、それ迄そんなに年がら年中一緒に生活した事も無かったので、三人の中で一番英語が出来て頼りになる母の取り合いにすぐなってしまった。 狭いアパートで逃げ場も無く、その上私のベッドは居間に置かれていたので、慣れる迄が大変だった。 その頃からパイプを始めていた父は、神経質そうに音を立てながらパイプを吸い、その音がたまらなく気になって、すぐ喧嘩したりもした。 友達が出来る迄は、家ではテレビ位しか楽しみも無くしょっちゅうテレビを観ていた。 父の居た大学の人が私の事を心配して、私をしょっちゅう家に招待してくれ、私と一緒の学校に通っていたその人の娘とその弟達とよく遊んだ。 その人はヨーロッパからの移民で、戦争の時は岩手に駐屯していたらしく、会う度に、「私の知っている日本人は牛と一緒に生活をしていた」と言っていた。 親切な人で、私が郊外のディスカウント・ストアーで買って貰った自転車の組み立てが出来ず困っていれば、工具を持って家迄来て呉れ、あっという間に組立てて呉れたりした、皆とても優しい家族だった。

日本から来ていた先生方も家族で来ている方は、たまに集まってパーティーを開いたりしていた。 大部分が父より若い方ばかりだったので、父も積極的に仲間に入れて貰う感じではなかった。 特に医者の先生は、御実家がお金持ちの方が多く、父とは合わないみたいだった。 日本人は自分が苦労して学んだノウハウを秘密にして、後から来た人間に教えない傾向があり、両親はいつもその事で苦労していたみたいであった。 或時等は、父がある医者の先生に健康保険の加入の仕方を教えて貰おうとして話を伺っていた時、その先生が、自分が如何に要領良くやったか自慢ばかりするので、カッとなって怒るという一幕もあった。

夏休みに入ってから、母の運転するフォードのステーション・ワゴンで色々な所に寄りながら、マサチューセッツ州に向った。 ナイアガラの滝以外は、父の学校関係だったので左程興味は引かれなかったが、お蔭で、コーネル大学とか普通ではなかなか行かない場所にも行く事が出来た。 ボストンに行った時はその古さと暗い重々しい雰囲気に驚かされた。 途中ラウンドアップレイクという湖で釣りをさせて貰った事があった。 ブルーギルとか入れぐいである、その時、向うの人間は釣ってもすぐ返す、所謂、キャッチアンドリリースというのを知った。

ケープコッドの夏は実にのんびりしていて、大西洋の海岸が独特の雰囲気を醸し出していた。夜、防波堤の上から海を見ていると、兜ガニが居たりして実に幻想的な海だった。 昼間は昼間で、フェリーの接岸する桟橋で釣りをしていると、アメリカのお上りさんが寄って来て、私の釣り上げたフグを見て、「食べられるのか」と聞いたりした。 日本人がフグを食べる事を知っていた様子も無かったから、単に見た事が無かったのだろうと思う。アメリカは広いんだなとその時思った覚えがある。 一度は珍しく、ヒラメを釣り母に刺身にして貰って食べたりもした。 余りにのんびりしてしまったので、帰国する為にニューヨークに向っている時、革靴を忘れた事に気付き、ニューヨークに着いてから慌てて買った程である。 ニューヨークは未だその頃は古くて汚い印象が強く、今から考えればローリング・トウェンティーの様な危険な感じをを彷佛とさせていた。 ニューヨークではエンパイヤステートビル、自由の女神と今でこそ珍しくもないが、当時の中学生としては、格別な思いをさせて貰った思い出がある。

帰りは、ニューヨークから一人で、各地の知り合いの家に泊めて貰い、見物しながらクリーヴランド、ロサンジェルス、ホノルル、ヒロと飛行機を乗り継ぎながら帰路に着いた。 ディズニーランドにも連れて行って貰ったし、ハリウッドも見せて貰い、キラウエア火山ではジープの上から野生のイノシシを見たり、当時としては最高の経験だった。 又、餓鬼が一人で飛行機に乗っていると、綺麗なスチュワーデスがおもちゃはくれるわ、何はくれるわ、挙げ句に五本入りの煙草迄貰って羽田に着く迄実に良い気分だった。 帰りの飛行機にはミスユニヴァースの児島明子さんが乗っていたりした事から見ても、今となっては大昔の事の様である。 只ひとつ残念だったのは、私が気に入っていた一人のスチュワーデスが気象を担当している人間と抱き合っているのを見てしまい、子供心を傷付けられ、後になってそのスチュワーデスを小田急線の下北沢の駅で偶然見掛ける迄は、航空機事故はスチュワーデスと操縦士がコックピットでいちゃいちゃしている時に起きるのではないかと真剣に考えていた事である。 私の描いていたスチュワーデス像は下北沢の駅のイメージとは掛け離れていたのである。

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