自伝

千葉

NKと会社を始めた頃は私も張り切っていて、赤いスポーツカーに乗り、二時間半も掛かる千葉の事務所に足げに通って居た。 最初の頃は電車で通ってみたりもしたが、船橋で更に乗り換えなくてはならないのは、どうにも我慢がならなかった。 折角二時間半も掛けて行く割には、仕事は三時間もすれば済んでしまい、何で好き好んで千葉くんだりに事務所を開いたんだと、NKを恨めしく思ったりもした。 千葉で六時頃解散されてしまうと、又もと来た道を帰っても家に誰も居なかった私は、どうしても足が盛り場の方に向いてしまい、首都高速を飯倉の出口に差し掛かるとつい降りてしまった。 電車で行っても結果は同じだった、秋葉原で日比谷線に乗り変え、六本木で降りるか、お茶の水で千代田線に乗り換え、乃木坂で降りるか、どちらかをその日に行きたくなったクラブに近い方を自然に選んでいた。 幾ら彼が始めた会社とは言え、方位を観て貰ったからと言って、七石金星は同期の私も同じ方角だとは言え、NKの家のある小岩からじゃ川を渡った千葉しか無いじゃないかと思っていた。 幾らNKが、「俺の住んでいる小岩は、おめえの住んでいる世田谷より昔江戸の中心に近かった」と言って私を馬鹿にしても、私には納得が行かなかった。 いくら私がアイディアを出しても、一緒に役員をしていた、大手石鹸会社の化粧品部門の専務をしていたOH氏が否定的な意見を出すと、気が小さいNKも何も言えなくて、その人に流されてしまい、Nの社長ごっこには着いて行けない感じだった。 実家のキャディラックを運転して、彼の下町趣味の服装と相まって、千葉のオフィスに通う姿は、まるでその筋のお兄さんの様に私には映った。 だがその八百万したというキャディラックの乗り心地だけは良かった。 或日私が、助手席で、「さすがキャディラック」と、いつもの様に、その乗り心地を評価してると、何を勘違いしたのか、NKが、「ひがまない」と言ったので、その時私は、「アメリカならまだしも俺がキャディラックを日本で乗り回す様にみえるのか」と一瞬彼の見識を疑った程であった。

私のアイディアは悉く潰され、私の紹介した知り合いの取引先も、OH氏が直接販売にこだわった為に、立ち消えになり、私の立場も無くなってしまい、私の足はどんどん遠ざかって行った。 中国人のJ氏が未だ生きていられた時は、華僑のネッ・トワークで限り無い可能性が感じられた。 上海に出張に行った時もJ氏が経営に参加されていた、ニットの工場も見学して、彼の弟がカナダのバンクーバーに持っているニットの工場の部長に将来私をして下さいよと冗談混じりでお願いしたりもして、私のどちらかと言うと食品よりも得意だったニットの方面にも可能性見付けて喜んでいた。 その時は私もカナダ大使館の商務部に出向き資料の閲覧迄させて貰い、将来の為に何か他の事業も出来ないか模索したりもしていた。 J氏がシリコンゴムの工場とも取り引きしたいと言った時は、J氏を大阪のH理事長にも紹介したりしていた。 H理事長もお知り合いが中国で毛布の会社を経営されていて、現地の人間と折り合いが悪いからと相談されたりもしていた。 J氏の奥様は香港でも三本の指に数えられる華僑のお嬢さんで、J氏も自分の力で事業を成功させたいという気持が、傍に居る我々にもひしひしと伝わって来て、何とか私も力になれればと真剣に考えさせられた。 HO氏は、あく迄も食品一本で行きたいとニットの件は否定的だったが、私はカナダの夢があったので、かつて私が英国系の企業でインテリアの部長をしていた時代に、隣の衣料品部の部長がその後独立して海外の衣料品会社のコンサルテーションの会社を設立された方に紹介して貰った、香港で会社をおこされた日本人の方に相談を持ち掛け、何とかJ氏の中国の工場を活性化しようとしたりもした。

NKもかつての自分の取引先に声を掛け、見本を検討して貰える段階に迄達していた矢先、J氏が突然入院され、三ヶ月後に息を引き取られてしまったのである。 上海の出張のから帰って間もなく、私がHO氏に勧められて上海で買った、前立腺肥大に効くという漢方薬の話をした時、J氏が真面目な顔をして、「そんなに効くの」と私に聞いた事を、亡くなられてから思い出して、「ああ、相当工合が悪かったのに隠されていたんだな」と思った。

数々の不都合が発覚し始めたのはJ氏が亡くなってからである。 元々私が自分の事務所を閉めないのに批判的だったNKは、私が駒沢の事務所に居ても営業活動が出来る様にと購入した冷凍庫の費用については口を閉ざし、小額の見本代だけは、「請求しといてね」と言って、彼の経費節減は増々増長し、これから打って出る企業とは到底思えなくなって行った。 その頃からNKの吝嗇ぶりが目に余りそれにはわたしも、いささか腹も立った。 それは三人一緒に上海の空港で待ち合わせた時に兆候は既に見えていた。 私が便所に行っていた間に後の二人がどこを見回しても居ないのである。 仕方が無いので、自分で空港税を支払い、出国手続きを済ませて搭乗すると二人は何喰わぬ顔をして席に着いていて、経費の事は何も言わないのである。 少し不機嫌になった私をOH氏が見咎めて一時は機内で喧嘩になりそうになってしまった位であった。 後で、NKの趣味が、貯金と墓参りだと聞いて、私は成る程なと思ったのである。 後になってその件については、さすがのOH氏も私にぼやいて、「柳田さんが飛行機の中で怒った理由がやっと解りましたよ」と言った時は、決算も近付き手遅れになていたのである。

二度目の出張は私は外されてしまい、NKとHO氏の二人で出掛け、その時から焼き鳥の扱いも始めた。 その頃急激に成長していて店頭公開する話の出ていた、焼き鳥屋のチェーンに納入が決まりそうになっただけで、NKも捕らぬたぬきの皮算用を始め、私に、「利益はどうやって分配するんだ」聞いたので、私が、「持ち株比率でしょ」と言うと、さも嬉しそうに、「じゃあ、おめーの分はたったの二十パーセントじゃねーか」と言った時は、「こいつ馬鹿じゃねえか」と思ったと同時に、「私は、どうせ良い思いは出来ないな」と感じた。 後になってNKの売場時代の後輩のH君という青年が加わり、未だ見通しが立たない内にOH氏の誘いの言葉も手伝って、H君が東急百貨店を早々と辞めてしまった時は私も心配して、何とかH君だけにでも、給料が払える様にした方が良いのじゃないかと、二人に進言してみたのだが、二人とも責任を擦り付け会って埒が開かなかった。 その後で、NKが利益分配表を作ったと言って、OH氏に見せた時があったらしく、私の取り分が雀の涙ほどだったと、後になってOH氏が私に教えて呉れた。

事務所を開設した時に、私が、什器から、電話、ファックス・コピー機のリース、果ては経理ソフトと販売管理ソフトを組み込んだコンピューター迄用意するのを手伝ったにも拘わらず、経理ソフトには見向きもせず、几帳面に小遣い帳を細かく付けていたのには、ずぼらな私は感心させられるものがあったが、彼のは経理というよりも、会計という感じで、嬉しそうに、「ちゃんとやってるでしょ」と、まるで子供が親に誉めて欲しがっている時の様な顔をしてにニコニコされると、「憎めない奴だな」とは思ってもビジネスは別である。 私が心配になって、早く税理士を紹介する様にと言っても、会わせて貰えず、文書一つ作成するにしても、彼は自宅から感熱紙の家庭用ワープロを持って来て、コンピューターに入っていたワープロを覚えようともしないので、「こいつは頂けないな」とは思っていたが、こんなに早く結果が出ようとは私にも予測が出来なかったのである。

中国人のJ氏が亡くなって暫くして発覚したのだが、J氏の出資した金が、我々の知らない間に返却されていたのである。 それも何の証憑書類も無く、現金で戻されてしまっていたのであり、普通だったら背任行為である。 その時迄後の二人はその出資が只の見せ金で、J氏の会社が金持ちだと信じていたのである。 これにはさすがのOH氏も腹を立て、NKに迫ったのだが、埒が開かない。 聞けばNKが上海に行く飛行機の中で、OH氏に何かそれらしき事を言っていたと知り、「何だ最初から共同経営でも何でもなかったんじゃないか」と、私はその時初めて実情を知ったのである。 私はその時、同期会で吊るし上げられた時に二人の元同期の人間を殴ってしまった事を思い出し、「つまらない事の為に、元の仲間を殴ってしまったな」と思ったが、後の祭りであった。 結局決算書の中に、NKが自分の愛社のキャディラックで飛ばしていた時のスピード違反の販促金迄経費で落としていた事に腹を立てたOH氏が造反して、NKは社長の座を、私が最初から提案していた様にOH氏に明け渡したのである。

その後NKも急に態度を豹変し、あれだけ社長面して威張っていたのが、「俺は肩書きにはこだわっていない」と言い、あれだけ私を近付けない様にしていたJ氏の会社を只の一取引先であり、我々の目指しているのはナショナルブランドであると言ったのには私も思わず吹き出してしまいそうになったものである。 その頃は既に、私が明るい将来の為にと準備したコンピューターは、後から参加したNKの売場時代の後輩が、トランプの独り遊びする時の専用に成り下がってしまったのである。

OH氏の経歴も変っていて、国立大学を卒業しから一時高校の教師をしてた事があり、大手石鹸会社には中途入社だそうである。 彼の行動力は凄まじく何処からあんなエネルギーが出て来るのかという様な、古いタイプのサラリーマンで、計画よりも先ず動く感じに、私はOH氏の企画力についても常々疑問を感じていたのだが、彼が大手上場企業の子会社とは言え、専務迄おやりになった方だったので、遠慮していたが、後になってから、前の会社のOH氏の二人の上司の方とお話しする機会があったので、それとなく伺ってみると、私の疑問が適中してしまい、「OHの参加する会議は終わらなくて困ったんだよ、彼も居られなくなったんじゃないの」と言ったので、「ああ、やっぱり」と思い、その時点でやっと諦めも付いた。 その後OH氏とは何度か会った事もあったが、一度恵比寿で一緒に食事をした時に、私が、「何もしなくても後二年は何とか食べて行ける」と言ったのに、腹を立て、「俺は二年間も先の予測が立つ人間と食事をする積りは無い」と席を蹴って立ち、外に出てしまったので、追い掛けて道で少し話したのだが、「そんな事言ったって、私が困ったら面倒を看て呉れる訳じゃないんでしょ」と言うと、「看る訳無いじゃないか」と言ったので、 その時私は、「他人なんて皆こんなもんよ」と再認識させられたのである。

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