自伝

心機一転を企てる

東急百貨店時代の同期のKNと、中国食材の輸入販売会社を設立をした当時も、かつて私が英国系の会社に就職した時と同じに、私は、「ああ、やっと自分もこれで立ち直れる」と思ったものである。 その時丁度乗っていたフォルクス・ワーゲンのゴルフが私の運転が乱暴だったせいか、寿命が来てしまい、オイルが漏れて修理不能を宣告されてしまい、私がそのゴルフを購入したヤナセも、フォルクス・ワーゲンと手を切り、オペルに鞍替えしてしまっていて、その当時ワーゲンは継子扱いされる様になっていたので、私は丁度良い機会だと思い一度乗ってみたかった、トゥー・シーターの車を物色し、売り出されたばかりのMGFというスポーツカーに乗り換えたのである。 色も最初は地味にしようかと考えたが、ミドル・エイジ・クライシスを乗り越える為には派手なのが良いだろうと、母が黒にしたらと言ったのを無視して、赤のディタッチャブル・トップ付きに決めた。その頃母が、新しい会社の事務所が千葉迄二時間半も掛けて通うのは大変だから、事務所により近い都心のマンションを買う事を勧めたので、私も新規に事業を始め、その頃は未だ見通しが良かったので、残金位何とかなると甘く考えてその計画に乗る事にした。 場所も色々検討したが、最終的に私がよく通っていた六本木のクラブのすぐ近くに、計画されていた、或会社のマンションのちらし広告がたまたま新聞の折り込みで見付けたので、即連絡を取り申し込んで頭金迄支払ってしまったのである。 そのマンションは屋内駐車場も別売していたので、新しく購入したスポーツカーの屋根を外して保管も出来るし、それなら折角買ったオープンカーも活きてて来ると思い、内心ほくそ笑んでいたのである。 その訳は、私がその車を購入した当時は、その屋根が重くて一人では着けたり外したりするのが困難で、その上保管場所が必要だ迄考えていなかったので、そのマンションの話は私にとっては願ったり叶ったりだったのだ。

沖縄に行く

NKと会社を設立した年、民俗学者のT先生と沖縄の宮古島で開かれたシンポジウムに参加する機会を得た。先生の希望で母親も同席した。 宮古島の海岸でT先生がふとした思いつきから「海上の道研究所」を作ろうと言い出した。 自分にも良いアイディアに思えたので賛同した。 私は日頃、母が何かの話を持ち掛けて来る度に、彼女の企みに加担するのだけは避けたいと常に思い続けて来たが、今回の企画は両親も高齢になって来た事でもあるし、前々から祖父関係の窓口がはっきりせず、事務機能の低下を感じていた矢先だったので同行する事にしたのである。 沖縄に行くのは初めてだったし、T先生と御一緒させて頂いたので、普段はお会い出来ない方達にもお会い出来たし、普段行けない場所にも案内して頂いて実に収穫の多い度だった。 沖縄で感じた事は、何と言っても、島の人達が、「本土」、「本島」と自己差別をし過ぎるという事である、その時私は「沖縄は小さな日本である」と思った。 これが後に、祖父の言っていた「孤島苦と世界苦」だと知ってどんどん祖父の学問と言うよりも、祖父の考えていた事に興味が深まり、のめり込む直接の引き金になったのである。 その時迄「青年と学問」すら読んだ事が無かったのである。 もう一つの大きな発見は、「桃太郎の誕生」は祖父がボティッチェリの「ヴィーナスの誕生」をイタリアで鑑賞しながら思い付いたという事である。 自分があれだけイタリア・ルネサンスに惹かれ理由がこの時初めって解ったのである。

海上の道研究所を計画する

年が明けてから、沖縄に御一緒させて頂いたT先生と、「海上の道研究所」の件打ち合わせを成城の実家でしたのだが、公的資金が出る訳じゃ無し、自分がそこの専従になる事も出来ず、その企画は流れてしまった。 その準備段階で「柳田國男を継承する会」というのを設立しようという話も出たが、研究所の話と一緒に立ち消えになってしまった。 その頃母は、一月に一度位遠野に移築したかつての我が家に住んでいた。 私は行った事が無い、それは母親のテリトリーに踏み込めば公衆の面前で必ずと言って良い程息子を蔑んだような発言をするからである。 沖縄の話を私が面白いと思ったのは、東北みたいに寒い所は自分には向かないし、母が牛耳っている所には死んでも行きたくないと思ったからであり、それなら北と南で丁度良いので、自分は宮古島担当になろうと思ったからである。 母がT先生に接近したのは、それ迄バックアップしていたG先生が、自分の思う様に動かなくなって来たので、鞍替えしようとしていたからであり、その日もT先生の「地名研究会」を遠野で開く事の打ち合わせだった。

案の定、母はT先生の前で「無学の芳秋がね」と何かの話題の時に言った。 その時の私の、「貴女の言う、学が有るというのはどういった人を指すんですか」という質問に答えて母は言った、「それはね、大学を出てから、学部から大学院に進み、博士課程迄順調に来た人の事よ」。 その言葉に私は愕然とした。 そりゃ私は幼稚園にも行っていないし、大学院にも行っていない、然し、それを母は、在野世俗の原則を貫き通した、博士でもない、柳田國男の事を話していた席上で言ったのである。 母は私が遠野に行かないのも、母親の後を末っ子が着いて来ると思われるとみっともないからと、勝手な解釈をしていた。 その時の母の表現も、「就職もしていない、学校で民俗学を学んでいる訳でもない人間が母親にくっ付いて」というもので、会社を設立したばかりの息子を捉まえて、「就職もしていないで」はないだろう。 そこに同席していたT先生だって、東大で英文学を専攻してからある出版社で雑誌の編集長をしていた時に、その会社の経営が一時傾き仕方無くて民俗学者になられたというのに、その台詞はないだろうと、私はその母の言葉に失意と憤りを隠せなかった。 その日も私はたまらなくなって「G先生が言う事を聞かないからといって、即、T先生に鞍替えしようとするのは、余りにも節操が無さ過ぎる」と意見を述べた。 その後一寸した事でT先生の御機嫌を損じてしまい、結局その日の会合はT先生が席を蹴って立つという結末で終わった。 母が間に入ると必ず起る現象なのだが、相手の男性は必ず息子を非難してみたり、説教しようとしたりする。 その原因は、母は嫁の立場であり、普段祖父の事をまるで実父の様に「父が、父が」と言っている関係上、血の繋がりのある孫は鬱陶しいのである。 自分が柳田家で主導権を保持する為には、「男共がだらしが無いから」という理由しか無いのである。 従って母の周りに集まる男共は我々息子を見ると勝ち誇った様な顔をするのである。

【総合目次】 【HOME PAGE】 inserted by FC2 system