自伝

再び恋愛

私が未だ豪徳寺に居た頃、私が酔って英語の鼻歌を歌いながら家に向って歩いていると、電車から一緒だった外国人の若い男が興味深そうに私を見たので、声を掛けて友達になった事があった。 その男の子はCと言う名前のアメリカ人でで、以前ICUに留学していた事があり、たまたま懐かしくなって日本に来ていると言っていた。 少し経った或日、私が何かの用事で玄関口に立っていると、そのCが、私の家の前を、以前道で会った時とは違いドレスアップして通り掛かり、私が、「めかしこんで何処に行くの」と声を掛けると、「パーティーがあるから、一緒に行かないか」と誘って呉れたのである。 私が、「着替えるから一寸待っていて」と言うと、「何かグリーンの物を身に着けて来い」と言うので、私は言われた通り茶のツイードの上着の下にグリーンのセーターを着込みその上の同じ色のグリーンのマフラーをして、彼に着いて行ったのだ。

パーティーは或団体の主催していた、セント・パトリックス・デイのパーティーだった。 彼はアメリカ人に似合わずシャイで、パーティー会場に着いても、そをそわとどうして良いか分らない様子だったので、私が、「こういうパーティーでは、真中の席に陣取り、来ている女の子が全員見える様にしておくのがこつである」と言って真中の席に移り、「気に入った子は居ないのか」と聞くと、「一人居る」と答えたので、それが誰かを教えて貰い、私がその女性に声を掛けて切っ掛けを作ってやると、今度はCがその女性とばかり話しているので、その人に聞こえない様に、「こういうパーティーでは、幾ら一人の人間が気に入ったとしても、出来るだけ多くの人と話すのがこつだ」と言うと、Cが、「他の子と話していたら逃げられるかも知れないじゃないか」と言うので、「一度電話番号さえ聞いちまえば、後で電話すれば良いじゃ無いか、俺はアメリカ人にパーティでの振る舞い方を教えたのは初めてだ」と言って、二人で大笑いし、その時以来仲良くしてちょくちょく一緒にパーティーに参加したり、飲みに出掛けたりしていたのである。

Cはその最初のパーティーで出会ったピアニストの女性を非常に気に入った様子で、その後も私に彼女と会うにはどうした良いかと聞いて来たりして、私がその度にやり方を伝授してやって、二人の交際は続いていたみたいであった。 或日Cが電話して来て、「彼女が友達を連れて来るから一緒にダブルデートをしないか」と言ったので、私も気軽に「ああ、いいよ」と快諾したのだ。 その彼女の家の在る阿佐ヶ谷の飲屋で紹介された女性に私は一目惚れしてしまい、四人でビールを飲み交わしている内に、キューピッド役になったCとその彼女は二人で気を利かして姿を消してしまったのである。 残された彼女もCの彼女と同じピアニストで学校時代の同級生だと言っていた。 その後私と残された彼女は何本かビールを飲んで会話が弾み、私が気が付いた時は彼女が既にへべれけに酔ってしまっていたので、私はその日は初日なので帰ろうと思い、彼女が車で来ていたので車を停めた場所を聞き出し、私が運転席に座り家は何処か聞いた処、「彼方の家に行く」と言い出し困ってしまったがその子の江戸川の自宅迄送って行けば自分が帰り困ってしまうと思ったので、私のマンションに連れて帰り、私のベッドに寝かし付け私は居間のソファーの上で寝たのである。 朝起きて彼女の寝笑顔を見ると、どことなく良い家のお嬢さん風だったので、襲い掛かる訳にも行かず、起きて来た彼女にその事を訊ねると、父親は医者だといったので、何もしなくて正解だったと、その時私はほっとしたのである。 彼女も私を気に入ってくれたみたいで、「先ず生活設計を立てましょう、N子」とそこにあった便せんに書き残し、昼前に颯爽と運転をして帰って行った。 私はその時、「ああ、これでやっと俺も普通の生活に戻れるかも知れない」と思ったのである。

私は十日後に、あのニューヨークのオークションで世話になったNY君がハワイで結婚式を挙げるので、それに参加する事と、Cの友達がサンフランシスコに帰ったのでそのJ君に会いに、アメリカに行く事になっていて、二週間も彼女を放って置いたら忘れられてしまうと、気が気で無かったのだが、幸い四日後に彼女から電話が入り、次の日に会える事になった。 それから出発前に二階程会う事が出来、私は無事アメリカに旅立てたのであった。 ハワイからN子の声が聞きたくて家に電話すると、母親が電話に出てその時は取次いで呉れて彼女と話す事が出来た。 話している内に彼女も何とかしてアメリカに来ると言い出したので、サンフランシスコで会う事にしたのである。

ハワイで無事NY君の結婚式も済んだ次の日が丁度日曜日で街は何かのパレードでごった返していた時に、私はと言えば、前歯の歯槽膿漏が悪化して歯茎が腫れて来てしまい、その上少しして差し歯が抜け落ちてしまい、これじゃ彼女に振られてしまうと困り果て、泊まっていたホテルの契約していた歯医者に駆け込み相談したのだが、匙を投げられてしまい、そのままサンフランシスコに行く事になってしまっていたのである。 サンフランシスコの空港にはJが迎えに来て呉れていて、彼が車の運転をしない主義なので、バスに乗り彼のアパートに向かった。 道すがら事情を話し、次の日に歯医者に連れて行って貰う事にした。 次の日或大学の歯科学部の付属病院に電話してみると丁度休み中で診療していなかった。 仕方が無いので、もう一つの大学に行きお願いする事になった。 入り口で、書類に既往症だとか色々記入させられた迄は良かったが、私は旅行者で保険が無いので金額が心配になり、その旨伝えた処、応対してくれていた看護婦さんが、「幾らだったら払えるのか」と聞いたので、「百ドル迄だったら何とか」と答えた。 その時は私も必死で、「偉い先生じゃ無くても、インターンの学生でもいいから何と治療してくれないか」と一生懸命お願いした。  やっと受入れて貰い治療始まって少し経つと、看て呉れていたインターンの学生が手に負えなくて音をあげてしまい、次に偉い先生が出て来て駄目で、最後には歯の担当のドクターと歯槽膿漏担当のドクターが両側から覗き込んで、交互に治療してくれた。 腫れていた部分は結局切開手術になってしまい、ドクターが、「抜糸して上げるから、一週間後にもう一度おいで」と言うので、「無理ですよ、私は四日後にハワイに戻らなくてはいけないし、その後は日本に帰らなくちゃならない」と答えると、「それじゃ二日間酒も煙草も我慢して三日後に来い」と言ってくれたので助かった。 私はその時、「俺に酒と煙草を止めろと言うのは、死ねと言うのと同じだ」と、その先生に言ってはみたものの、結局背に腹は代えられないと思い、その後二日間は節制していた。 若い先生等は、私の救い様の無い症状を見て関心を持ったのか、「私に患者にならないか」と言うので、「私は旅行者で、日本に帰るから無理です」と丁重にお断りした。

サンフランシスコではJ君のフラットに居候していたのだが、N子がノブ・ヒルという高級住宅地にあるホテルに泊まりたいと電話で言ったので、取り敢えず掛合ってみたのだが、最初は精々百八十ドル位迄にしかして貰えず、他に何処か良いホテルが無いかと思い、先ず日本のホテルを手始めに探し始めたのだが、何処も皆同じ様で、割引料金を呉れず困ってしまい、再度ノブ・ヒルのフェアモントホテルに電話を入れ、「二、三日後に日本から大事な彼女が来る事になっていて、お宅に是非泊まりたいと言っているんだけどどうにかならないか」と頼んだ処、「それで、御予算は」と聞いたので、しめたと思い、「一泊百ドルしか予算が無いので二泊させて欲しい」と頼むと、「幾ら何でも百ドルは無理です」と言って聞かない、「そこを何とかお願いしますよ、お宅だってツアーが入っているでしょ、そこに一人増えたと思ったら良いじゃ無いですか」と言うと、「裏側の部屋でも良ければ、九十九ドルで結構です」と言って、やっと承諾してくれた。 この時程アメリカという国がリベラルな国だと思った事は無かった。

丘の上のJのフラットは最高の立地だった。  彼女が着く前は、Jの買い物に付き合ったりして過ごした。 日本の布団が欲しいと言うので、一緒に買い物に行き、そこで働いていた日本人の留学生をJが気に入ってしまい、丁度良いので二人で口説いて、Jの彼女にした。 私がN子を空港に迎えに出ると、彼女はまるで、近所に一寸出て来たような格好をして、ゲートに姿を現した。 聞くと、彼女は出て来る時母親に、「軽井沢の美術商をしている友達の別荘に行く」と嘘をついて出て来たと言った。 そんな彼女の気取らない所がたまらなく好きだった。 その時は日本に帰ってから見る事になる地獄絵図何か想像だに出来なかった。 最初の夜はJと三人で近所のイタリアレストランで食事をした。 私が喫煙席にこだわったので、Jが、「アメリカでは食事の時には煙草は吸わないものだ」と偉そうにいったので、私が、「イタリアレストランで禁煙の所なんて、世界中何処を探したって無い」と、私は突っぱね、イタリア人のウェイターを掴まえて灰皿を頼んだ。 途端にその場が気まずい雰囲気になってしまった。 出て来たスパゲッティはアメリカ風でお世辞にも美味しいとは言えなかったので、私が全然手を付けないでいると。 Jが、私がどうして食べないのか聞いたので、私は一言、「まずい」と言ってしまった。 Jは、「お世辞でも、美味しいと言うものだよ」と、説教がましく日本人みたいな事を言った。 その日はN子が着いたばかりなので、そのまま私達はホテルに引き上げた。 ロビーにある一室で誰かがピアノを弾いていた。 思わず入って行くと、一人のお客さんが弾いていた事がわかった。 私が彼女に、自分の為に何か一曲弾いて呉れる様に頼み、あの成城の新居で一時一緒に暮したM子の好きだった、フランツ・リストの「愛の夢」をリクエストすると、「全部覚えていないから旨く弾けるかな」と言いながらも、弾いてくれ、私は一時の幸せ感に浸る事が出来た。 その夜は二人共レストランでのハプニングでくたびれてしまい、何事も無く終わった。

次の日は、二人で途中でビールを買って、丘の上のJのフラットを訪ねた。 Jは彼の新しい出来ばかりの日本人の彼女と二組のカップルの友人を呼んで私達の為にパーティーを開いて呉れた。 皆が帰ってしまった後で、Jが、ヘイト・アシュベリーのクラブに行こうと言い出したので、一緒に行く事にした。 クラブの入り口でN子だけIDの提出を求められてしまい。 彼女が、「皆ホテルに置いて来た」と答えると、入場を断られてしまった。 私が、「この子が二十一歳以下に見えるか」と言っても聞き入れて貰えなかった。 その時Jが、「アメリカではIDを持ち歩くのは常識だ」と言ったので、ムッと来た私は、「それなら早く言え」と怒ってしまった。 私はその途端帰ろうと思い、道の真中に飛び出しタクシーを止めていた。 当然N子も一緒に着いて来ると思い込んでいた私は、少しジェラスだったので、Jに気を使って戸惑っていた彼女に向って、「俺は帰る、そいつと居たいなら勝手にしろ」と怒ってしまった。 彼女は後ろ髪を引かれる様な顔をして、泣きながらタクシーに乗り込みホテルに着く迄泣き止まなかった。 その夜は、私がいくら頼んでもピアノを弾いて呉れる事は無かった。 部屋に戻ってもN子は、何とかしてなだめようとしている私に、「私は、そんな軽い女じゃ無いわよ」とずっと私を拒み続けていた。 私はその時、「何でそんならサンフランシスコくんだり迄のこのこ出て来たんだ」と言いたい思いだったが、そこをぐっと堪えて、「俺もそんな軽い男じゃ無い」と言ってやっと仲良くなれた。 昔から一緒に居る様な気になっていたが、二人は会ってから未だ何日も経っていなくて、お互いの事を何も知らないという事にその時始めて気が付かされた  ハワイに戻っても、サンフランシスコに出る前に嬉しくて、バーの女の子だろうが、フロントの女性だろうが誰彼構わず、「日本から彼女が来るんだ」と言って歩いていたので、彼女が少し遅れて別の便で到着した時は皆私と一緒になって喜んでくれた。 二人で歩いて居る時は誰にでも声を掛け二人の写真を撮ってくれるよう頼んだ。 あるホテルの、海に面したフランス料理のレストランでとった朝食は格別だった。 ボーイが何枚も幸せそうにしている二人の写真を撮って呉れた。 このレストランは、私がハワイの白木屋で働いていた当時、、女優のARを女房と一緒に案内して朝食を取った事がある思い出のレストランだった。 ラストオーダーぎりぎりに駆け込んだ海辺のレストランでロブスターを味わいながら観た独立記念日の花火はまるで我々の独立記念日を祝ってくれている様だった。 このレストランにも、私が白木屋から愈々日本に帰される事が決まった時に、当時私の居たワイキキ店の前にあったバーで働いていたRと最後の食事をした思い出があった。 そこ迄はまるで私にバラ色の未来を約束しているかの様に全て旨く事が運び、私は幸せ一杯だったのだが、帰国してからがいけなかった。

私は未だ打ち合わせが残っていたので、N子には先に帰る事になっていて、私よりも先に帰国したのだが、時差を計算するのを忘れ帰るのが一日遅くなってしまったのに気が付かなかったのだ。 家に帰ってから両親に問い詰められたN子は全てを打ち明けたと言っていた。 それでも彼女は帰国した私を成田に出迎えてくれた。 その日は私の家に泊まる事になり、夜中迄開いているイタリアレストランで食事を済ませて帰って来ると母親から電話があり、すぐ娘を送って一緒に顔を出す様に言われた。 家に着くと母親が玄関で仁王立ちになって待ち構えていた。 その途端私は、そう簡単には済まない事をしでかしてしまった事を覚った。 父親は待ちくたびれて既に酔っぱらって寝ていた。 父親が出て来て暫く無言が続いた。 お互いに相手が何か言い出すのを待っていたのである。 その時何で私が先に誤り挨拶が出来なかったのか、彼女にあとから散々責められてしまった。 その時父親が、私が挨拶しないと言って、一発のげんこつが私の頬をかすめた。 その後、灰皿を投げ付けられ、続いて革製の椅子も飛んで来た。 途中からN子の兄さんも出て来たが、少しは私の味方になってくれるかと思った私の甘い期待は無惨にも打ち砕かれた。 その前に車の中で、「お兄ちゃんなら庇ってくれるわよ」と、N子から聞かされていたのだ。 その只一人の味方かと思っていたお兄ちゃんも、今にも殴り掛からんばかりに斜に構えていた。 その夜は暫くして解放され、私は這這の体でそこから立ち去りやっとの思いで家に帰り着いた。  その時は二人共未だ諦めていなかったので、私達はその後も会える時は必ず一緒に居た。 或日、二人で外で食事をして別れた後、両親と兄さんに伴われて家に戻って来た事があった。 後ろで黒のドレスを着て、困った顔をして立っていたN子の赤い口紅がやけに可愛かった。 全員がテーブルを囲んだ後、彼女の父親が口火を切った。 「お前が手を引かなければ、娘の手を折ってでも別れさせてやる」と、私は父親から脅かされた。 「お嬢様が傷付く位なら私は身を引かせて頂きます」と私は冷静に答えた。 それでも許して貰えなかった。 「そんな言葉信用出来ない」 「これからお前の実家に行って、両親に話そう」 「結構です参りましょう」 「親に勘当されていたんじゃないのか」 「家の一大事ですから、大丈夫です」 「お父さんは何をしている人」 「生物学者です」 少し態度が和らいだ。 「どこの」 「お茶大を退官して今はそこの名誉教授をしてます」 大分大人しくなった。 「私も医者だから良く分るけど、娘が君と結婚する事は、C型肝炎の人間と結婚するのと同じだ」 「君が死んで残される娘は後どうやって暮すんだ」 「だから娘を君にやる事は出来ない」 彼女の兄さんが最後に、「彼方の書いた本読ませて貰ったけど、アウトサイダー的で共感出来ない」と言ったのがショックだった。 N子は兄さんだけでも私の事を少しでも理解してくれる様にと、私の書いたあの小さな本を兄さんに渡して必死に私の弁護をしてくれていたのだ。 その只一つの希望も無惨に打ち砕かれてしまった。  それでも二人は未だ諦めずに会い続けていた。 彼女が地方にピアノの講師に出向くと言えば、車で送って行った。 その内彼女が急に冷たくなり、別れたいと言い出した。 聞くと、「父親が、「お前が別れないのなら、柳田を殺してやる」と言った」と呟いた。 N子の父親は沖縄の出身で、気性が激しい人だった。 お兄ちゃんが血を引いているのは理解出来たが、埼玉出身の母親も負けじ劣らじ激しかったのは未だに理解が出来ないでいる。 お兄ちゃんがいきり立って身構えるのを見た時、私は、沖縄の人間が出征する時、妹のハンカチを持って行くと、何処かで読んだのを思い出した。

トラブル続き

インドに一緒させて貰った宝石商のI氏の経営する会社にたまたま入社した、私の高校の二十年後輩のN君に出会ったのが切っ掛けで、その頃から若いアーティストと話す機会が増えて来た。 Nの経歴は変っていて、麻布高校を卒業してから、ある大学に入学が決まっていたにも拘わらず、洋服を勉強したいが為、親から貰った入学金を持って、親に内緒で文化服装学院に入学して、その為に親から見放されてしまい、バーテンのアルバイトをしながら学校に通っていたそうである。 その内洋服作りに飽きて、自転車に一時興味が移り、私が彼と出会った時は専ら時計の製作に凝っていた。 彼が宝石に興味を抱き、私の知り合いの会社に就職したのもそんな事からであった。  Nの同級生のM君に紹介されてから、私はよくアーティストの集まりに参加する様にななって行った。 後輩という事ですっかり気を許した私は、一時はそのMとアーティストの集まれる場を確保しようと、中野あたりの不動産家を回って歩いた事もあったが、彼には仕事を任せられる程の熱意も責任感も無くその話はお流れになってしまった。

ニューヨークのオークションの仕事を終え、すっかりアート付いた私は、ニューヨークのエキスポで知り合った日本の会社にアプローチしたりして積極的にビジネスチャンスを模索していた時期があった。 一時は人脈が限り無く拡がって行く様な気さえしていたのである。 その時期は私の多方面に亘る人脈が交差して、たまに衝突を起こし、トラブルに発展する事さえ出て来た程であった。 或日私が新宿の京王プラザホテルで宝石商のI氏と食事をしていると、I氏が私に向って、「今通った綺麗な女性が柳田さんの事を見ていたよ、知っている人じゃない」と言ったのである。 私は、「どうせ銀座のお姉さんかなんかだろ」と、その時は軽く受け流してしまい、それ以上追求しなかったのだが、その人達が食事を終えて帰りがけに一人ずつ横を通り、I氏が話していたのが、前日の昼にアプローチを掛けていた会社で会った人間である事に一瞬気が付かず、続いて私がニューヨークで会った女性が出て来て初めて気が付くと言う様な有り様であったのだが、その人がその時私に紹介した女性が、私に向って、「私の事覚えている」とにこにこしながら聞くので、「何処かでお会いしましたっけ」と逆に聞き返す始末で、それが前の晩のアーティストの集まるパーティーで話したT子さんだと思い出す迄にかなりの時間を要してしまう様な一幕もある位の目まぐるしさだったのである。

そんな時にトラブルは発生し、私はある女性の心を傷付けてしまう事になるのである。 或時私は京王プラザで紹介された時に中々思い出せ無かったT子さんから苦情の電話を貰い、その件で広尾のカフェでその人と話した事があった。 T子さんはその時流行っていた所謂世間でマルチ商法と言われているものだが、化粧品のコミュニケーション・ビジネスをしていて、その支払いの事でトラブルになり、たまたまその相手の三人の女性が私の知り合いだった為、私が彼女の悪口を言って歩いているのではないかと誤解して、私に苦情を申し立てて来たのだが、T子さんが言うのには、彼女がニューヨークに行き友人宅に泊まった時、たまたま私の知り合いのC子さんが同じ日に押し掛けて来て大迷惑だったそうで、その私の知り合いが自分の使っていた化粧品を欲しいと言うものだから分けて上げたのに値引きをしろと言って来たとか来ないとか、複雑で良く理解出来なかったのだが、私の聞いていたのは、T子さんが別の女性にその化粧品を値引きして上げると言って売り付け、結局定価で請求したという話だけだったので、私はその時、それが私の与り知らぬ話であるという事だけしか言えず、判って貰えなくて困ってしまったのである。  元々私は、「私が使ってみて良いと思ったから只勧めてるだけなのよ」と言う様な、コミュニケーション・ビジネスそのものが嫌いな為に、その時の彼女の余りのしつこさに、「そんなに勧めたいなら只でやればいいじゃないか」、「商売と言うものは、売買差益でそういった嫌なごたごた迄全て賄わなくてはいけないものだ」と言ってしまったのがお気に召さなかったらしくその後も文句をたらたら垂れ続け、その上日本人の私に対して気取って英語で話すものだから余計に苛々して、とうとう切れてしまい、「俺は日本人に英語で話されるのが一番嫌いで、お前の下手な英語なんか何処に言っても通じない」と言ってしまったのである。 彼女が、「こんな場所でそんなに大声で怒鳴らないで下さい」と言った時も、「カフェというものは元々皆が喧々諤々の議論をする場所で、俺は気に入らなければ広尾だろうが、インドのど真ん中だろうと怒鳴る」と言ってしまったのである。 その時私は、インドで私を招待して呉れたインド人の友人に怒鳴ってしまった事や、サンフランシスコでN子に怒鳴ってしまった事を思い出していたのである。 彼女は、自分の田舎の学校で英語の先生をしていた事があったので自分の英語にかなりの自信を持っていたのが、私に暴言を吐かれていたくプライドが傷付いてしまい、その後一時北海道に行き回復する迄に時間がかかってしまったと、私の共通の友人に打ち明けていたと最近になってからも聞いた事があったので、かなり頭に来ていたにちがいない。

事の発端は、その前に一度T子さんの友人のシンガポールの人の方の家のパーティーに誘われ、C子さんもその時同行した事があり、その時はそのC子さんが酔っぱらって醜態を見せて私がそこでも怒鳴った事があり、その席で、そのシンガポール人のR氏が近々自由が丘にインド料理のレストランを開くというのでT子さんににオープニング・パーティーの手伝いを依頼されたのだが、たまたまその日に彼女がニューヨークに行っているので、その件を私にして欲しいと頼まれて、私が三十人くらい人を集めてパーティーは成功裡に終わり、私としては感謝されこそすれ文句を言われる筋合いでは無いと感じていたのである。 最初の自宅で開かれたパーティーの時に、R氏がシンガポールに建設中の家がそろそろ完成する事になっているので、丁度T子さんの誕生日が翌々月だから、誕生パーティーはそのシンガポールのR氏の新居でやろうという事になっていたのだ。 それから少し経ってT子さんの誕生日もとうに過ぎてしまった頃、R氏から電話があり、家が出来たから来ないかとお招きを受けたのである。 その頃は私もR氏と親しくなっていたので、「彼女は何にあんなに腹を立てているんだろうね、女性は本当に難しい」とか言って既に気にもしてなかったので、私とC子さんだけが一緒に行く事になり、後からC子さんの妹が加わって、結局三人で伺う事になったのである。  直前にどういう訳か、R氏の新居には泊めていただけない事になってしまい、それが気に入らなかったのか原因は判らないが、私が空港に行き後からT子さんが空港に着いて私が紹介された時は妹さんは既に機嫌が悪く、その時の姉妹喧嘩を聞いていた限りでは、「お姉ちゃんが早く出ろと言ったから、言われた時刻に出たら一時間半も前に着いてしまった」と他愛も無い原因だったと私は思っていたのだが、彼女の機嫌は飛行機に乗り現地に到着しても直らなかったのである。 その上悪い事に、R氏の家に泊めて貰う事を期待していたC子さんは、宿泊予算を組んでいなかったのか、突然私の部屋に同室をさせて呉れと言い出したのである。 仕方が無いので私は急遽部屋をツインルームに変更し、一つのベッドをその姉妹に使って貰う事になり、それから三人の窮屈なシンガポールの旅が始まったのだ。 R氏も仕事が忙しかったので、一度飲茶のレストランで昼食を御馳走して頂いた時位しか御一緒出来なかったが、それでも初日は三人でマーライオンを見物したりして何とかクリアー出来た。  二日目、別行動にすれば良かったものを、私が二人のブランド品の買い物に付き合ったのがいけなかった。 あるブランド品のブティックで、依然機嫌の悪い妹の我が儘な態度に私が腹を立て、その妹に、「俺はお前の子守をする為に、シンガポールに来たのではない」と怒鳴ってしまい、その子が、C子さんに向って、「こんな事を言わせておいてもいいの」と逆切れしてしまたのである。 私は先にホテルに戻り、少し考えてから黙ってホテルを自分だけ引き払う事に決心し、電話帳でホテルを物色したのだが、今度は紹介では無いので、安いホテルが中々見付からず色々電話を掛けまくってやっとの思いで適当なのを見付け、予約を入れた。 フロントにチェックアウトしたいと伝え、荷物を纏めてフロントに行き、一泊分の支払いをしようとすると、フロントのクラークが、彼女達の分もクレジット・カードをインプリントしてから行って呉れと言うので、私がその申し出を断わり、「残りは彼女達から貰って呉れ」と言うと、そのクラークが心配そうな顔をして、「あの子達お金持っているのかなあ」と言ったので少し気の毒になり、「それじゃ、米ドルで二百ドル置いて行くから後はそれで賄え」と言って、やっとその場から解放された。  都心のホテルに新たにチェックインしたその晩、C子さんと電話で話す事が出来、先に帰国させて貰う旨を伝えた。 フィックスのチケットだったので、翌朝早く空港に行き変更を依頼し、今回はイタリアの時の様にペナルティーも払わされずに事がスムーズに捗りそうに見えたので、急に安心して油断してしまい、N子に土産でも買おうと普段は入らない免税店に入ったのがいけなかった。 入り口の中国系の担当者が早口で、「搭乗券の日付けとチケットの日付けが違うじゃ無いか」と文句を着けたので、「急に帰りたくなったからカウンターで変更して貰った」と言うと、未だ不満そうに、「何故」と食い下がったので、思わず、「お前みたいな奴がいるからだ」と怒ってしまい、後ろに並んでいた白人の観光客がその時笑ってくれたので助かった。 結局気分を壊してしまい、そこでも何も買わずに早々に退散した。 T子さんが私に苦情を呈して来た時に、私が少し後にこんな事が起るのを予知でも出来ていれば、あんなにも人を傷つける事もなかった心残りな事件だった。 その頃の私は、その時付き合っていたN子の事で頭が一杯で他の女性の事等考えている余裕も無かったのである。

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