自伝

駒沢に事務所を開く

自由が丘の店を閉めて間もなく、ダンテの養子縁組み先のT氏から電話があり、或人が福祉の大学の企画をしているから参加しないかというお話を頂いた。 私もその頃店を閉めて一段落したところだったので、願っても無いと参加させて頂く事にした。 その話は、神奈川県の或市を助役をしていた方が吉祥寺で福祉の学校を開こうとしていたのを、御自分が資金集めをして、彼が助役をしていた市に規模を大きくして開校しようという計画の様に私には聞こえた。 三鷹の学校関係者の方にお会いして話を伺ったりもした。 その内に三鷹の話は立ち消えになり、O氏単独の企画に変って行った。 その方は、O氏という、年輩の陸軍中野学校の出身の方で、戦後は或会社を経営されていて、後にその市の助役になられたと私は聞かされていた。 お会いしてみると、糖尿病を患われたと仰って、私がお会いした時は骨折して杖をついてらして、これから事業を始める様にはどうしても見えなかった。 それでも私は暫くの間、学校関係の資料を買い漁り、コンサルタント会社に問合せをしてみたりして何とか一応の企画書を完成させる事が出来た。

O氏は六本木に自分が会長をしている会社があると言って、仕事はそこでするので、先ずそこの名刺を作ってくださり、仕事が始まるかの様に見えた。 そこの事務所を経営されていたのは、にO氏のお知り合いの方で一時盛んにテレビにも御出演になられた、観相学のF先生であった。 その方は元々特許関係のお仕事をされておられたという事で、その事務所には彼の経営する別会社も入っていた。  最初の内はその事務所で色々な方と会った、わたしから見れば全て胡散臭く見えた。 その関係で、大阪のある財団のH氏という理事長にお会いする事になっり、一度日本橋の物件を理事長が御覧になると言って東京にいらした時に紹介された。 二人は仲が良いと伺っていたのだが、一緒にお会いした限りではそうも映らなかった。 その内O氏からその財団の東京支部を作りたいのでお前の住所を貸せという連絡が入り、別に支障も無かったので私はその申し出を受ける事にした。 肩書きはO氏が支部長で私が副支部長に決まったが、名刺がもう一枚増えても仕事が始まる気配は一向になかった。 途中から私は理事長が一番信用出来そうだったので、全て直接財団に電話でお伺いをたてる事にした。 その内財団でもO氏の経歴書が必要との連絡が入り、O氏にその旨連絡したのだが、中々お出しにならなかったとみえ、財団でも問題になってしまいO支部長は解任されてしまう事になり、自動的に副支部長の職も無くなってしまった。

その年に私の所に入って来た話は全てが胡散臭くて、会う人全てがブローカーに見えてしまい、一時は誰を信じて良いのか判らなくなる位目まぐるしく人が交差した。 私は一時交通整理も兼ねて、その頃私の親分面をして鬱陶しくなって来たT氏が丁度彼の大言壮語に薄々感じ始めていたO氏の覚えが悪くなって来たので、タイミングを見計らってT外しを持ち掛けた。 続いて、H理事長にも独断で全て報告し様子を伺い始めた。 次第に六本木事務所の観相学のF先生にも絵を売る話を相談されたりして、その下に居られたO部長ともざっくばらんに話が出来る様になり、私は増々O氏にたいする猜疑心が強くなって来た。 O部長から話を伺うとO氏がそのF先生の別会社の会長をしているというのは、名目上だけで、昔のよしみで事務所を使わせて上げているだけであり、正直の処分けの分らない人間が出入りして迷惑してるとの事だったのである。 一度私もオーストラリアに家をお持ちだという分けの分らない方にお会いした事があって、その方は金融ブローカーの様な事をされて居る事を知り、O氏の目的が金を動かして間に立ち利鞘稼ぎする事にあるのが判ってきたのである。 私ももう少しの処で分けの分らない人間にされる寸前で助かったという訳だったのだ。

T氏は最初私を子分にした積りになっていたらしく、最初のO氏とのミーティングの時から名刺の出す順番迄口煩く言い、その場所に着く迄の間も、自分が学校の理事長になったら君も理事にしてやると行ってみたり、F理事長と東京駅のあるホテルで初めてお会いした時に、新宿駅でT氏の知り合いの、それも分けの分らないK氏と待ち合わせた時にも私に切符を買って来いと命じてみたり、その時はさすがに気が引けたのか私が無視すると自分で買いに行ったが、理事長が物件を見に行かれると言われた時にも、タクシー乗り場で私をせかす様にタクシーを止めて来る様に命じて見たり、私に父親から貰って来たと得意そうに言って、如何にも部下に指示を与えるかの様にタクシー券を私に渡し、必要な時に使う様にと言っておきながら、結局自分がお供をする羽目になってしまい、私に、「さっき渡したタクシー券返して」と小声で言って取返して見たり余りにも滑稽だったので、私はその時心の中で、「それ位の金も持って居ないのかよ、お前が部下を使う柄かよ」と思って笑ってしまった。

私が最初に彼に頭に来たのはほんの些細な事で、或日彼が私その頃付き合っていたYの二人を二子玉川の或レストランに連れて行き、自分の家がどんなに良い家かとか、自慢話しばかり聞かせた挙げ句、まずい食事を得意気に勧めて、如何にも自分はそこで顔が効くかの様に振る舞っている姿を見て、嫌気がさしているところに、Yに向って、「柳田となんか付き合わないで僕と付き合え」と格好を付けて言った事に始まっているのである。 彼は一時が万事そういった調子で、一時私は全て箇条書きにして、得意の精神分析を試みた位常軌を逸している所があったのである。 私はそれ以来、パイプを得意そうにくゆらせる男は、パイプを自分のコンプレックスを隠す為の小道具に使っているのだと信じているのである。

そういった風なT氏の態度も最初の頃から疑問に感じ、悉く威張ろうとする態度に辟易していたので或日電話で怒鳴ってやったら突然態度を豹変し、「僕も人に威張るの苦手だったんですよ、柳田さんが兄貴分になって、僕を舎弟にして下さいよ」と言ったりしておかしな事ばかり言って、それから少しは大人しくなったので、外さないで一緒に会議に参加したりしていたのだが、それから私が出資していたデザイン関係の会社でそこの役員をしていたインテリア関係の仕事をされていたIという女性にTを紹介して上げた事があって、そこでも例の誇大妄想癖を出し始め、彼女が紹介してくれた彼女と同郷の函館のベンチャー企業のハウジング会社のK常務に私が相談したりして色々模索していた矢先に、K常務がTの為にと、あるビルの建設の企画をTに回してくれた事があり、Tが張り切って一人で仕切ろうとした為、私が心配になり、K常務に連絡すると、案の定Tが自分の勤めていた会社を抜いて自分の息の掛かった人間に任せて企画を立てている事が判って来たのである。 K常務としては、Tの当時勤めていた会社だからこそ、仕事を回したのに、Tから私に伝わって来た情報は逆に自分の会社でデータ・バンクを使ってK常務の会社を調べさせたとかT一流のはったりばかりで、Tが状況を把握していない事が手に取る様に伝わって来たのである。 私がK常務に心配になって電話をした時は、そんな勝手な事をするTにK常務がほとほと手を焼いているところだったのである。 私がK常務から受注の状況を伺って、その時自分なりに試算した限りでは、当初の予算そのものが実現性の乏しい物件だったにも拘わらず、素人のTは気が付かず、私の忠告を無視して独走しようとしていたのである。 その物件は間にゼネコンの様な業者の入る隙間等これぽっちも無かったのである。

私はその時余程、自分の立場を守る為にもTの行状を暴露した文書を関係各位に送ろうかと思った位で、文書をワープロで打ち出しいつでも発送出来る状態にしておいた程だったのだが、結局風波はなるべく立てない方が良いと判断して思いとどまったのだが、少し経ってからTが私の事務所に朝電話して来て、こっちの忙しいのも構わず彼一流の例のはったり口調で、まるで携帯電話を初めて買って貰った坊やが嬉しくてしょうがなくてわざと周りの人間に聞こえる様に得意げに喋りまくっている様だったので、私が、「お前が俺の言う事も聞かないで、K常務にもしも迷惑でも掛けたらぶっ殺すからな」と、又怒鳴ってしまって、Tもその時の私の剣幕に驚いて、「それじゃまるでヤクザみたいじゃないですか」と言うので、煩かったので私がガチャンと受話器を置いてしまいそれっきりになってしまった。 私が彼と最初に会った頃電話にでた女性の態度だけで、彼が会社で粗末にされている事が分っていただけに可哀相な気もしないでもなかった。

最近になって、その後専務に昇格された、かつてのK常務が心配されて二人のよりを戻そうとお考えになって仕組まれたらしいが、私がK専務と赤坂で待ち合わせた時、Tがたまたま居合わせた様な顔をしてそこに来ていたので、仕方が無く三人で食事をして、その後K専務の行き付けの銀座のバーで飲んだ事があったが、Tの性格は相変わらず昔のままで、一度K専務にその店に連れて行って貰った後で、自分の会社の出入りの業者を連れて行き、ボトルを入れさせて、K専務の事も自分が使ってやっている会社の人間だと言ったそうで、その時もその業者に入れさせた他人のボトルを飲もうとするので、私が止めさせた位で、ホステスから総好かんを喰い、K専務が皆からTだけは連れて来ないでと言われている事にも気付かず一人で気炎を上げ、帰りに自分の行き付けの銀座のバーで飲んで帰ると言って一人寂しそうに去って行ったが、その時は私もそれ以上付き合えば自分の評判を落とすだけだと思い、彼に向って、「酒は自分の金で飲みなさいよ」と、つい嫌みを言ってしまった。 私がTに紹介したデザイン会社に居たIという女性も彼とトラブルを起こしたとみえ、後から私の事務所に電話して来て恨みがましく、「変な男を紹介されて困っている」と苦情を言って来るし、御陰でその時既に始めていた中華食材会社の為に、折角彼女がスーパーマーケット・チェーンを紹介して呉れると言って呉れたいたのに、私が彼女の電話が余りにもしつこかったので、つい電話口で怒鳴ってしまい全てお流れになってしまったのである。

私はその頃、六本木の会社に出入りしていた人間二人と駒沢に事務所を開いていて、 三人でビジネスチャンスを模索していたのだが、聞いてみると二人ともミュージシャン上がりで、昔はバンドで楽器を演奏していた事がわかり、SKという男はそれ迄往年の大演歌歌手KHのマネージャーをしていたのだが、KHが亡くなってしまってから失業してしまい、それから独自に歌手を育てようと努力していたのであるという事が判った。 後の一人は、SSといってサックスの奏者をしていた人間で、六本木の観相学のF氏の下で特許関係の仕事をしていた事があると言っていて、事務所を開いた当時は電飾看板の代理店をしているが資金が足りないと言って、一度私に六本木の件の会社の事務所で事業計画書を見せた事があったが、私の見た限りでは作文が過ぎ、損益計算書部分が数字のお遊び臭くて実現可能性に乏しいと言う他無い代物だった。 SKが元の事務所から荷物を持って来たいというので、聞いてみると私の荷物より多い感じだったので少し心配だったが、三人でトラックを借り、四ッ谷にあった事務所から、コピー機、カラオケ機械から鹿の角の壁掛けに至る迄持ち込んだので、事務所が一時何処かの山小屋の様になってしまい、殺風景なので、自由が丘の店の商品が自宅に保管してあった中から、私が選んで持ち込み、ルネサンス風にアレンジしてから何とか事務所風になった。

事務所を開いたばかりの頃は、私も二人の為に何とか自分も協力して、ビジネスを起こそうと努力してみたのだが、SKがどうしても自分は歌手を育てたいと言って、四国から女の子を呼んで私も面接に立ち会わされたりした事もあったが、歌手志望と言っても、カラオケでしか歌った事の無い女の子をアパートから生活費迄の面倒を看る余裕も意志も私には無かったし、四国で喫茶店を経営してるという、その子の母親が出て来て事務員に使ってくれと言っていたが、お断りした。

私も、その頃よく飲みに行っていた件のイギリス人のサーカスで象に乗っていたJが働いていたクラブのホステスでオーストラリアから来た、Lというしっかりしたダンサーを紹介したりして何とか彼の知り合いが興行関係のマネージャーをしていた伊東のホテルに売り込める様に努力した積りだったが、事務所に連れて来た女の子を前にすると格好を付けてしまい、通訳をしていた私に如何に難しいか話して聞かせるので、こちらから頼んで連れて来た手前、私も彼のやる気に疑いを持ってしまい、その子が帰った後でSKに、「あんたが困っていると言うからわざわざ連れて来てやったのに、格好付けて難しい、難しいと、消極的な事ばかり言ってやる気はあるのか」と怒鳴ってしまった。 私としては象使いのJもダンサーなんだし、Lと一緒にチームを組ませれば国際ダンシング・チームが一つ出来て面白いと思ったのだがそうは簡単に行かなかった。

一度は彼の所に秋田からその筋のお兄さんじゃないかという感じの人が訪ねて来て、事務所のソファーで大股を開き、大声で、「こないだよ、俺の事務所でチャカ弾いた奴がいてよう」と始めてしまい一時はどうなる事かと思った。 SKは酒も飲まず気の小さい人間で、私に取り付いてたかろうとしていた訳でもなく、綺麗好きで事務所もピカピカに磨いて呉れたりして、助かる面もあったのだが、私の大事にしていたブロンズの像を金たわしでこすり、或日私が事務所に出てみると、そのブロンズのわざとくすんだ色に彩色されていたのがピカピカになっていたので問いただすと、自分がしたと素直に認めたのでその時は私も何も言えなくなってしまったが、正月出勤してみると、コーヒー・メーカーのプラスティック部分がぼろぼろになっていて、それが窓際にあったものだから私はてっきり寒さでやられたとばかり思って、そのメーカーにクレームを付けたら、今迄そんなケースは一度も無いので、精密検査をさせて呉れと言われ、少し経ってから検査結果が出たとメーカーから連絡が入り、係りの人間が、「お宅様では、錆び止め潤滑剤はお使いになってませんか」と言った時に、私には心当たりがあってピンと来たのだが、しらばっくれて、「いいえ、うちではそんな物を使う人間は一人も居ないし、大体うちの事務所にはそんなものは一つも無い」と、コーヒー・メーカーの置いてあったカウンターの棚の一本のスプレーの缶を見つめながら答えてしまったのだ。 その係りの人が言うには、精密検査の結果或特定メーカーの有名な錆び止め潤滑剤が検出されたという事だった。 その時私も心配になって事務所の中を見回すと私の大事にしていた英国製のティーカップから何から何迄金たわしでピカピカになっていたので、さすがに私も切れてしまい、SKも居辛くなったのか、暫くして滅多に事務所に顔を出さなくなってしまった。

サックス奏者のSSは最初は一緒に飲みに行ったりして、一度は私も、彼が以前現役の頃演奏をしていた事がある、横浜のクラブにはまりそうになった事もあったが、事務所を開く段階になって、彼が借金に追われ生活に窮々としている事が判り最初は少しずつ援助していたのだが、彼の電飾看板の事業も、芸能プロダクションと違い私も手伝えると思い、最初の頃は一緒に得意先のガソリンスタンドに同行したり、メーカーを訪問したりしていたのだが、思う様に事が運ばず、その頃未だ付き合いのあった大阪のH理事長にも頼んでみたりもしたのだが、借金に追われている人間は落ち着きが無く、何をしても駄目で、その内看板のメーカーからも不信感を持たれている事も判り、私にも更に金を貸す様に言って来て、仕方なく再度貸したりしていたのだが、金を貸した時の様子が、金を見た途端わしづかみにする様な感じで余りに尋常で無いので問いただすと、金融業者も、銀行だけなら未だしも、サラ金からも借りてる事が判り、最後に年を越えられないと、彼の奥さんとお嬢さんが可哀相だと、私が彼に貸した金額を足すと、その合計が百四十万になってしまい、私もこれ以上はどうしようもないと思い、SSに、「何で俺がアパートで独り寂しく暮しているのに、お前の家族を養わなくちゃならないんだ、娘に給料を入れさせるとか、奥さんに働かせるとか何とかならないのか、それが駄目ならお前が俺のアパートで暮らし俺が奥さんと娘さんと一緒に暮したっていいんだぜ」と怒鳴ってしまったのである。 その後奥さんも働きに出て、娘さんの就職も決まり少しは好い方向に向くかと思ったのだが、結局私が、自己破産を勧めて手続きをさせ、私は彼の筆頭債権者になってしまった。 その後奥さんとも離婚してしまい、さも私の同情を引く様に、「俺もとうとう別れちゃったよ」と言ったので、「馬鹿野郎、俺なんか十五年も前に逃げられて以来一人で、お前に同情する気なんかさらさら無い」と彼に言ってしまった。 結局彼の残したのは、一万四千円相当の英国ライセンスブランドの雨傘一本で、その後暫く、「これは百四十万円の傘だから大事に扱えよ」と、行き着けのレストラン等で言っていたのだが、その傘もその後何処かに置き忘れてしまい無くなってしまった。

私が駒沢の事務所を閉めた時、SSに葉書で連絡をして二人に会ったが、後片付けをする為にとわざわざ作って渡した鍵を、SKは私に言わないでSSに渡して、再び姿をくらましてしまった。 SSは相変わらず、「石鹸の要らない水を作る機械」だか何だか分けの分らない機械のパンフレットを見せて、「これを買うには家中の石鹸を全部捨てないと売って貰えない」とか何とか分けの分らない事を言って、「興味あるなら置いて行きますよ」と、あのブローカーがよく言う台詞を口にしたので、私は、「俺は石鹸を使わないで風呂に入るのも嫌だし、シャンプーを使わないで頭を洗うのも嫌だし、その機械には興味が全く無いから持って帰ってくれ」とパンフレットを一式置いて行こうとするSSを制して断ってしまった。 それから少し経って彼から、兵庫県のその機械の工場で世話になっていると電話があり、近くに私の祖父の大きな看板が立っている所だと言っていたので、福崎か何処かに居たのだろう、電話番号を呉れたけどこちらから掛ける気には今の処なっていない。

その少し前に、昔私が紹介されて旨く行かなかったジャズピアニストの女の子がピアノを引いていた六本木のTというジャズ・バーで会ったヘッドハンターのTJ氏が、たまたま彼のアパートが近所だったので、丁度私が事務所を開いた頃、それ迄彼がもう一人の金融業専門の人間と神田に開いていた事務所を閉める事になって、私の事務所に入れて欲しいと言って来たので、それ迄の二人も滅多に出て来なくなってしまった事でもあったし、彼が自分の事務所を閉める時も、デザイン会社が業務拡張の為出資者を募っている情報を流して呉れたり、スチール家具は要らないかどうか聞いて呉れたりして、その時は既に新品を手配してあったのでお断りしたが、色々世話になっていたので私は二つ返事で承諾した。 KSの以前事務所から持ち込んだものが、リース契約もどうなっているのかも判らず、整備もその為に出来ずに迷惑をしていたので、TJ氏が御自分の機械を持ち込まれたので好都合でもあった。 席は今迄、SSが使用して物を使って貰い、SSの席は将来事務の女の子でも増えた時の為に用意してあった、窓際の小さいのに移して、電話も別回線でJT氏所有の電話を引いた。 彼は秘書サービス会社を利用していて、私は彼の電話を受ける必要が無かったので、楽だった。 TJ氏との最初の取り決めで、彼の売り上げの五パーセントを貰えるという事だったので、最初の頃は私もかなり期待していたが、一向に斡旋が決まる気配が無かった。 その内彼が以前の事務所で使用していた電話の権利を買って欲しいと言って来て始めて彼も金に困っている事が判った。 私はその場で三万を払い、それを事務所の電話の空いてたボタンに入れ、一時は人も少ない事務所に私の権利の分二回線とKSの持ち込んだ分の一回線にもう一回線が増え、電話回線だけは何本もあるという状態になってしまった。 その内KSも来なくなった或日電話局から電話があり、「明日工事しますけど宜しいでしょうか」と聞いて来たので、何の工事か判らなくて、「うちは工事等頼んでいませんが」と答えると、相手が電話番号を言ったので、始めてKSが何処か別な場所に移った事を知った。

その頃も私は、私がTJ氏から紹介されて出資していた、デザイン会社で出会ったIという女性が、或会社でアメリカの業務用の化学製品を日本で拡販したいと言っていると言えば、その会社迄出向いて、企画を立て、大阪のH理事長の仲良くされていた自動車修理のチェーンで扱って貰えないかどうか打診したりして、機会がある度にビジネスチャンスを伺っていた。 前の年の十一月にあった東急百貨店の同期会の席で、NKという同期の一人が近々会社を辞めて新しい事業を始めたいという話を聞き込んでいたのを思い出し、その頃NKに電話をして協力を申し出たのだが、その時にKNが、占って貰った四月迄は新規事はしてはいけないと言っていたので、四月が来るのを心待ちにしていて、丁度打ち合わせを私の事務所で始めた頃、大阪の財団のH理事長が、懇意にされていた健康食品の会社の販売会社を大阪に設立されて、東京にも事務所を開設したいという事で、そこの会社のS社長が私の事務所を訪ねていらした事があった。

その健康食品の会社は、一度Tが舎弟にしてくれと言って少し大人しくなった頃に一緒に伺った事があり、S社長ともその時に一度面識があったが、お話したのは初めてだった。 S社長は喋り方から、私にはどうしても馴染めない方だったので、NKの話も具体性を帯びて来た処だったので、いずれにせよ左程興味は無かったのであるが、いつ何時二つの話が、繋がるとも限らないので、一応お話を伺う程度にしておく事にした。 S社長の話では、その健康食品会社の商品を自分の元経営していた会社の取引先の、高速道路のサービス・エリアやパーキング・エリアの売店に商品を卸している問屋に売り込もうと考えていて、その管理を私に任せたいと言っていたのだが、どうもその元の会社と旨く行っていない様子で、それから何度かいらして下さり、お話を伺ったのだが、どうも内容が胡散臭かったので、理事長に正直に申し上げた処、丁度同じ頃H理事長も同じ事を考えておられ、H理事長の言葉に勇気づけられ、私はその話をお断りする事にした。 それから一度、S社長が事務所にお見えになり、今度は弱気になり、資金集めの為に私は自分の土地迄抵当に入れろと言われたとか、分けの判らない事を言い出して、それでも未だ私をルート・セールスに使いたい様な事を言ったので、私は、「私は雪のニューヨークに絵を売に行く事はしても、雪の東北どうにドリンク剤を売に行く事は致しません」とはっきり言ってお断りさせて貰った。 S社長がそれでも未だ煮え切らない顔をしていたので、つい立ての脇の自分の席で話を聞いていたTJ氏が横から助け舟を出してくれ、「柳田さんはそんな末端の営業をやれる様な人ではないですよ」と言ってくれたので私は救われた。 結局S社長はその後すぐに解任されてしまった。

その後も私は未だ、NKと会社の設立の準備をする傍ら、H理事長との仕事の話も並行して行っていた。 一時再度別の一件で、H理事長が東京に事務所をお開きになるという話があったが、遂に実現出来なかった。 その後は、H理事長の財団が契約していた診療所がレセプトの不正をしたと新聞にすっぱ抜かれた事があったり、私も参加させて頂いていた福祉関係のテレビ放送の会社からのお話しも、その会社が起用した往年の大歌手とトラブルになり、週刊誌に載ってしまったりして、私も新会社を四月に設立してからは、一時その事ばかりに気を取られ次第に御無沙汰してしまう様になってしまった。  NKとの会社に私が参加したいきさつは、彼の息子さんの同級生の父兄がたまたま一家で六本木に中華料理店を経営する傍ら、中国から食品を輸入して横浜の中華街に卸している別会社を経営されていて、その方から頂いた話で、NKの東急百貨店時代の取引先の専務が途中から加わり、最後に私が参加させて貰ったもので、新会社設立当初は、私も事務所に冷凍庫を購入し、飛び込みでセールスに出向いたり、私の知り合いの同業者にお願いしたりして頑張ってみたが、どれも旨く進まず、始めた当初は皆で一緒に上海に行ったりして、順調な出だしかに見えたが、設立して半年も経たない内にその中国人の方が亡くなり、後を奥様が継いだ為条件も変わり、旨く行かなくなってしまった。

会社を設立してからも、母から紹介を受けた、実家の近所で母がよく洋服を買っていたブティックの女性のオーナーで、或大手繊維会社のつてで、イタリアからスカーフを輸入されている方のお手伝いをさせて頂く機会があり、その頃設立したばかりの二人のパートナーにもついでの時に寄って貰い意見を聞いたりして、その時二人とも否定的だったにも拘わらず私の一存で出資してしまった後で、どうもブティックの経営が芳しく無い事が途中で発覚し、立ち消えになってしまった。

TJ氏から紹介されたデザイン会社も株式会社になり、社名も変更になっても、そこの社長が夢みたいな事ばかり言っていて一向に埒が開かないので、その時点で私は先の見込が無いと判断し、出資した金を手遅れにならない内に引き揚げようと考え、株主総会の出欠表を送って来た時に、わざと出席の返事を出し、株主総会の当日会社に乗り込むと、案の定何も準備していなかったので、これを幸とばかり、社長を怒鳴り付け、その場にその社長の依頼していた税理士に来て貰い、現金の残高を確認すると私の出資した分よりも少し多かったので、その場で税理士にも立ち会って貰い念書を書かせ、無理矢理返却させた。 そこの役員をしていたIも私から情報を聞き、自分の出資した分も面倒を見てくれるように、私に依頼して来たが、その余裕は無かったので、取り敢えず自分の出資分だけ確保した。

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